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【藤堂高虎】
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秀保の死を悼み高野山で出家
少々時系列が前後しますが、仙丸は成長後「藤堂高吉」を名乗り、朝鮮の役や伏見城普請などで活躍しています。
……が、しばらく後になって高虎に実子・藤堂高次が生まれたため、高吉は分家扱いとなってしまいます。
なんとも運のないお方です。
とはいえ、仙丸や秀保には責任のないことです。
高虎は秀保にも忠実に仕え、秀長が亡くなった後は後見役として支えました。
朝鮮の役では高虎が渡海し、秀保は名護屋にとどまっています。
しかしその数年後、文禄4年(1595年)に秀保は17歳の若さで急死してしまいました。
秀保の死の真相は不明です。
秀吉は彼の死を悼むどころか、葬儀を密葬で済ませたともいわれており、怪しさ満点。
同年7月には、秀保の実兄・秀次が切腹していることもあり、
「秀保は秀次と共に、秀吉に謀反を起こそうとしている」
と疑われて殺された……なんて説もありますが、はてさて。
若い頃からほうぼうを渡り歩き、やっと落ち着いた先で秀長・秀保という二人の主人を失った高虎が、意気消沈するのも無理のない話です。
高野山に上って出家してしまいました。
秀吉の強引に呼び戻され宇和島入り
そんなところで横槍を入れたのが、ボケが始まったとされる太閤・豊臣秀吉。
「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない! 宇和島に領地をやるから帰って来い!!」として半ば強引に復帰させられてしまいます。
このあたりの領主だった戸田勝隆という大名が朝鮮の役からの帰路で病死していたため、代役として選ばれたのです。
勝隆は、古くから秀吉に仕えてきた人でしたが、大名としての経験が浅く、地元民の心をつかむことができずにいました。
特に豊臣政権が行った検地については、どこの地方でも大不評であり、それを勝隆は何の交換条件も出さず強行してしまったため、大規模な一揆を起こされています。
高虎はそうした不信感漂う地域を、うまく治めていかなくてはなりませんでした。
農民が検地を嫌がるのは、平たく言えば収入が減るからです。
中世までの日本において、地方の政治は一言で言えば”テキトー”。
どこにどのくらいの広さの田畑があって、どの程度の収穫が見込めるか?など、中央政府は把握していませんでした。
農民たちはそれを逆手に取って、親から子へ、子から孫へと開墾を進め、密かに収入を増やしていたのです。
検地をされてしまえば、そうやって先祖代々努力してきたことがバレ、以前より多くの税を取られてしまいます。
ただでさえ天災や流行り病、戦の巻き添え等々で、いつ誰が死ぬかわからない時代。
生きている間に少しでも豊かな暮らしをしたいと思うのは当然のことです。
高虎は自分も流浪してきたことがあるだけに、農民のそうした感情を理解していたと思われます。
そこで、高虎は一つ条件を出しました。
領内の農民に対し「開墾を奨励する代わりに、一年間は税を取らない」と告げたのです。
こうしたやり方を”鍬下年季”といい、大名が農民を懐柔する策としてよく用いられました。
関ヶ原では大谷軍と相対
高虎は、他にも領内の神社を修繕したり、米を収めることによって、地域に溶け込もうと努力しています。
数年間こうして地元民の感情は徐々に軟化させたことにより、検地もスムーズに行うことができました。
とはいえ、難しい仕事を押し付けられたという点は変わりません。
しかもこれは、朝鮮の役と同時進行でやっています。高虎のような器量人でも、相当にストレスがかかったことでしょう。
それだけが理由というわけではない……と思われますが、高虎は秀吉が亡くなる直前から、徳川家康に接近します。
家康が慶長五年(1600年)の上杉征伐に出陣したときも従っていますし、関ヶ原の戦いでも東軍でした。
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関ヶ原当日は、最前線の大谷吉継隊と相対しています。
同時に、豊臣恩顧の大名のうち、
・脇坂安治
・赤座直保
・朽木元綱
・小川祐忠
たちに調略を仕掛け、合戦当日に寝返らせ、大谷隊へ攻撃させたのも高虎でした。
従来は「小早川秀秋が裏切って大谷隊を攻撃したため、東軍が勝った」とされていましたが、近年では「高虎の調略を受けた四人の隊が裏切ったから」という見方が強まっています。
高虎が大名に復帰せず、この場にいなかったら……なんて、”もしも”を考えてしまいますね。
ちなみに、大谷隊と藤堂隊に関するエピソードもあります。
吉継の代わりに五助の首を取る
大谷吉継は病(ハンセン病と推測されています)によって顔が崩れ、それを恥じていたといいます。
現代の大谷吉継像は「頭巾で顔を隠していた」イメージがありますが、これは江戸時代の説話で付け足された描写のようです。
ただし眼を病んでいたのは確実だったようですので、眼の異常を他人に晒したくなかった……という可能性はありますね。
それはともかく、武将であれば、より立派な武将以外には首を取られたくないものです。
しかしこのときの大谷隊は、裏切り者達に攻撃されている状態。
自分の首を裏切り者の踏み台にされるくらいなら、人知れず腹を切るほうがまだマシです。
吉継は数少ない家臣を連れ、山中でひっそりと腹を切り、その首を隠すよう言い残しました。
これに応じたのが、吉継の側近だった湯浅五助という人物です。
しかし、五助が吉継の首を隠したちょうどその時、高虎の家臣である藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。
高刑は高虎の甥で、当時24歳の若者。
五助は吉継の側近として知られていたため、願ってもない機会でした。
とはいえ藤堂の血が為せる技か、高刑は五助が何かを隠していたことに気づきます。
「何を隠したのか?」
そう尋ねると、五助は答えました。
「私の主人の首をここに埋めたのだ。私の首を渡す代わりに、このことを黙っていてくれないか」
自分の命と引き換えに主人の名誉を守る、という忠臣ぶりに高刑は感銘し、その約束を守ることを誓って、五助の首を持って帰りました。
当然、甥が武功を上げたことを高虎は大いに喜びました。
二人で家康の本陣に報告すると、家康は手柄を褒めた後、案の定、こう尋ねられます。
「五助ほどの者ならば、吉継の居場所か首のありかを知っているはず。討つ前に聞かなかったのか?」
難しい質問ですよね。
もし「尋ねなかった(その前に首をとってしまった)」と答えれば、粗忽者(うっかり者)・不心得者として功績が帳消しになるどころか、藤堂家への風当たりが強まったでしょう。
そこで高刑は、真正面からこう言い切ります。
「聞きましたが、言わないと約束する代わりに五助の首を貰い受けたので言えません。お気に召さないのなら、どうぞ私をご処分ください」
この高刑の律儀さに徳川家康は感心し、槍と刀を与えてこの件を不問にします。
まあ、家康からすれば「吉継が死んだかどうか」が重要ですからね。
もしも吉継の首を挙げていれば、そのぶんの褒賞もやらなければなりませんから、出費が浮いてラッキーぐらいに思ったかもしれません。
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