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【藤堂高虎】
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渡辺了との確執 ついには奉公構を出す
関ヶ原の戦いで家康が勝ち、平和な時代が徐々に訪れるようになると、高虎も徳川家に仕え続け、働き続けました。
2つほど例を挙げましょう。
◆宇和島(愛媛県宇和島市)に、海水を引き入れ五角形の堀を巡らせた「宇和島城」を築城
◆大坂夏の陣で大損害を受けながらも敢闘
ただし、後者については身内での確執も……。
当時の高虎の家臣に、渡辺了(さとる)という人がいます。
彼は若いころ高虎同様に渡り奉公人をしており、関が原までは西軍・増田長盛に仕えていました。
西軍が敗れた後は、長盛の居城・大和郡山城を東軍方に引き渡しています。
そのときの指揮ぶりが見事だったため、受け取りにきた高虎が惚れ込み、二万石で召し抱えたほどの人です。
しかしその了が、大坂夏の陣で高虎と仲違いすることになったのです。
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理由は他愛のないもの。
徳川家の譜代たちを無視するような形を取ってまで、大坂城へ突撃してしまったのです。
家康や秀忠の心象を悪くする可能性や、他の大名からの心証を損ねることを避けるなら、ここは譜代たちに譲るべきところでした。しかも、藤堂軍の被害もかなり出てしまっています。
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確かに高虎は家康から信頼を得ていましたが、大坂夏の陣の時点では、まだ油断は禁物といったところ。
そういうデリケートな情勢の中で、主人の立場が危うくなるようなことをしたのですから、了への印象が悪くなるのは当然のことです。
この働き自体は家康に認められ、高虎は従四位下への昇進と五万石の加増を受けていますが……高虎にとって了の振る舞いは許しがたいことでした。
了も了で意地を張り続け、結局藤堂家から出奔。
しかも出ていった当日は、鉄砲の火縄に点火した状態だったというのですから、完全にケンカを売っています。
これにはさすがの高虎も腹に据えかね、了に対し【奉公構(ほうこうがまえ)】という扱いをしました。
奉公構とは、自分のもとを去った家臣について、他の大名に「あいつは不心得者なので、雇わないでください」と知らせて回ることです。
現代でいえば、辞めた社員が再就職できないように、他社へ根回しするというような感じでしょうか。
ここだけ聞くとひどい話のようにも見えますが、よほどまずいことをしないと奉公構にはならないので、世間的には受け入れられていたようです。
有名な例では、水野忠重が息子・水野勝成を、黒田長政が後藤基次(後藤又兵衛)を、細川忠興が稲富祐直をそれぞれ奉公構にしています。
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外様でも高虎と政宗は例外的に厚遇した
家康は身内に厳しく、譜代を重用し、外様は冷遇という基本スタンスです。
が、藤堂高虎と伊達政宗の二人については、その力を大いに認めていたのでしょう。
外様ながら破格の扱いをしています。
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高虎については関ヶ原での活躍や築城技術、大阪の陣では一族を犠牲にするほどの奮戦振りなどを評価されたのでしょうね。
また、高虎は機を見るに敏というだけでなく、周囲の人間への気遣いや公平さも人並みはずれていましたので、「こういうヤツは使える」と思っていたのかもしれません。
例を挙げてみますと……。
・藤堂家から出て行く家臣を快く見送り、「もし上手くいかなかったら同じ給料でまた雇ってやるから、いつでも来い」と言って本当に実行した
・加藤嘉明(小さい頃からの秀吉家臣・福島正則や加藤清正と同じ釜の飯を食った仲)と折り合いが悪かったものの、自分より高給の領地に「加藤殿が向いてますよ」と推した
・死の直前、家臣に「ワシが死んだら殉死しようと思っている者は、名前を書いて提出するように」と命じ、名乗った人々を家康に報告して「こいつらは本当の忠義者だから、いなくなられると困るので殉死しないように言ってやってください」と書状を書いてもらった
「本当に戦国時代の人間か?」と言いたくなるほどの公正振り。
現代に置き換えるとすれば
「七回の転職に成功し、上司に認められ部下にも思いやりがある敏腕部長」
といったところでしょうか。
こんな上司だらけだったら、しょーもない残業が亡くなり、育児休暇もきちんと取れる、理想の職場になりそうですね。
幕末に津藩が寝返ったのは事実でありますが……
その後、儒教が広まった江戸時代の人々には、こうした深イイ話がわからなかったのか。聞こえないフリをしていたのか。
「不忠義者」
「変節漢」
「浮気性」
「我ら忠犬を見習え」(by譜代大名)
などなど、高虎はヒドイ言われようをされるようになってしまいます。
これは、高虎の後半生における加増ぶりがすごかったことにもよると思われます。
◆関が原の軍功により12万石加増→伊予今治20万石
◆他家の移封等による関係で飛び地として、今治城周辺に2万石加増→合計22万石
高虎存命中はここまでですが、最終的な津藩の石高は32万石まで増えています。
これがどのくらいかというと、水戸藩より少し少なく、福井藩より少し多いというところです。
つまり、藤堂家は石高において、水戸徳川家(徳川頼房)や、越前松平家(結城秀康)と同等の扱いを受けていたことになるわけです。
もちろん、多くの徳川家譜代を凌駕しています。
これ以上の石高となると、前田家や島津家、伊達家、細川家、尾張・紀伊徳川家など、10ほどの藩・家しかありません。
しかも高虎の功績自体は、誰からも文句のつけようがないのです。
となると、嫉妬した人々は、高虎の経歴くらいしかケチを付けるところがない……となります。
それは幕末に至っても同じでした。
高虎の子孫である津藩は、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いのとき、当初は幕府軍についていました。
しかし情勢を見て後退し、新政府軍に寝返っています。
これが高虎のイメージと重なって、
「藩祖の教えがよく行き届いていることよw」
なんて皮肉られる始末。
とはいえ、藤堂家の人々は大して気にしなかったようです。
新政府軍が東へ進んでいき、江戸城が開城された後、幕府軍が日光に立てこもって戦おうとしたことがありました。
東照宮があり、”神君”家康がいる聖地で、天佑神助を得ようとしたのでしょう。
当然、新政府軍に日光攻撃を命じられましたが、津藩の人々は拒否したといいます。
その理由は「家康公には藩祖が大変お世話になったので、墓を荒らすようなことはできない」というものだったようです。
家康の恩に報いる理由はあるが、ダメになったその子孫にまで無理して忠節を尽くす必要はない、ということでしょうか。
締めるところは締め、その他はテキトー主義
高虎は、晩年、目を病んでいて、死去するときには既に失明していました。
そのせいか、辞世の句や遺言の類が伝わっていないようです。
代わりに(?)「藤堂高虎家訓200箇条」なんて、読むのも疲れる……もとい、ありがたい教えを残しています。
現代でいえば迷信に入るもの、細かすぎてよくわからない点も多いのですが、全体的に上に立つ者の心構えが記されています。
ぴったり200条でも言いたりなかったのか。
4条ほど付け足しているあたり心配性なのか、マメなのかわかりません。
この「締めるところは締め、その他はテキトーに」主義が彼の一番の強みだったのかもしれませんね。
他にも高虎には「身長六尺二寸(約190cm)体重三十貫(約110kg)の超巨漢だった」などなど、エピソードが多く、関連書籍を読んでいるとニヤニヤしてしまうことが多々あります。
確かに主君をコロコロ変えたのは事実ですが、単なる裏切り者ではありません。
どんな状況でも諦めず、独りよがりにならず、部下や子孫への思いやりを持った、とても魅力的な武将です。
近年は三英傑や前田利家・島津義弘のような大大名だけでなく、特色のある武将にもスポットが当たるようになってきました。
高虎も、今後さらに注目されるかもしれませんね。
※ちなみに、当時の大柄武将と言えば、他に前田利家なんかもよく知られておりますね
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤田達生『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎 (講談社現代新書) 』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
藤堂高虎/wikipedia