「◯◯二世」といえば、世の中、何かと揶揄されがちですが、こと戦国期においては織田信忠や黒田長政など、父の名を超せないまでも有能で知られた武将はいます。
寛永15年(1639年)12月30日に亡くなった蜂須賀家政もその一人でしょう。
父は、秀吉の親友・蜂須賀小六(蜂須賀正勝)。
織田信長の下で秀吉と共に出世を果たした人物として知られますが、息子の家政もまた難しい局面を乗り越えています。
その生涯を振り返ってみましょう。
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父親の代わりに18万石を継いだ 蜂須賀家政
蜂須賀家政の前半生は、父と同じく、豊臣秀吉と共に戦国期を歩んでおります。
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播磨方面の攻略で敵将を討ち取り、その名を轟かせたのは、信長の生涯を描いた『信長公記』にも記されるほど。
続く中国地方の毛利攻めでも、孤立した味方の城に兵糧を運搬したり、吉川軍を相手に奮闘し、信長から褒められたなんて話もあります。
本能寺の変が起きた後も当然ながら秀吉に付き従い、【山崎の戦い】や【賤ヶ岳の戦い】にも従軍しました。
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そして秀吉が小六を大名にしようとしたところ、当人から「俺はお前の側で働きたいんだ!」と熱い断られ方をしてしまったため、「そんなら息子にやってもらうわ」ということで家政がその役目を引き受けることになります。
それは阿波一国丸ごと18万石というまさにケタ違い。
それまでの家政も領地自体は貰っており、名義上の主は父の正勝だという見立てもありますが、家政も従五位下・阿波守という官位をもらい立派な大名となりました。
このとき、秀吉と苦楽を共にした仙石秀久が讃岐・高松10万石(改易前)、五奉行の筆頭になる浅野長政が5万石ですから、彼らと比べても蜂須賀家に対する信頼の厚さが見てとれますね。
阿波踊りを始めたのも家政?
面白いのが、徳島城が完成したときのエピソードでしょう。
現在も徳島名物といえば必ず出てくる「阿波踊り」は、家政が城の落成時に「こいつはめでたい!皆好きに踊れ!」というお触れを出したことから始まったという説があります(それ以前から存在した説も)。
おそらく当初は好き好きに踊っていたのを、誰かが振り付けをまとめていったんでしょうね。
でも「こんなお触れを出したお殿様がいたんだよ」と言い伝えられるということは、家政が庶民からも親しみを持たれるような、身近な存在だったということにもなるんじゃないでしょうか。
実際にあったかどうかが証明できない以上、文字通りの意味とそこからあれこれ推測するのも歴史の楽しみですからね。
九州征伐や小田原征伐、朝鮮の役でも活躍
もちろん踊ってばかりではなく、【九州征伐】や【小田原征伐】、2回にわたる朝鮮の役でにも参戦し、功を挙げています。
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特に慶長の役(2度目の朝鮮出兵)では錚々たるメンバーに入り、
【慶長の役】※総勢14万
二番隊:加藤清正
三番隊:黒田長政・島津豊久ら
四番隊:鍋島直茂・勝茂
五番隊:島津義弘
七番隊:蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治
釜山城:小早川秀秋
安骨裏城(あんかうらいじょう):立花宗茂
加徳城:高橋直次ら
竹島城:毛利秀包(ひでかね)
西生浦城(せいせいほじょう):浅野幸長(よしなが)
※文禄の役は約16万の軍勢
激戦の中から浅野幸長(浅野長政の息子)を救出するという大活躍ぶり。
しかし、これを咎めた人が国内にいました。
石田三成です。
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彼は「あんなことしなくてもよかったのに」的なことを家政に言ってしまった上、家政が秀吉から預かっていた土地を取り上げてしまい、ものの見事に恨みを買ってしまいます。
三成は三成で戦後のことを考えており、戦線を縮小させたいと思っていたので、家政の行動が邪魔をしたような形になってしまったんですね。
つまり、味方を救出したことではなく戦った場所について文句を言ったわけですが、当時の状況的にそれはほぼ同じ意味だったため、本人の意図とは違った方向に受け取られてしまったようです。
ホント、頭が良いのに言葉が足りないというか、何というか三成の残念なところで……。
この手の行き違いをあっちこっちでやった結果が関ヶ原なんでしょうね。
話を家政に戻しまして。
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