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【蜂須賀家政】
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家康の養女を嫁に貰い、上杉征伐へ参加
帰国後そして秀吉死後の家政は「家康寄り」の立ち位置となっていきます。
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朝鮮出兵において三成と仲違いし、さらに秀吉に激怒されて所領を削られ、嫌気がさしていったのでしょう。
三成襲撃事件に参加した可能性も示唆されています。
ただ、難しいのは、関ヶ原での立ち位置でした。
すでに息子の蜂須賀至鎮(よししげ)を家康の養女と結婚させたり、上杉征伐に参戦させたため、西軍からは睨まれるポジション。
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かといって自身は東軍に参加しておらず大坂にいたため、西軍への従軍を余儀なくされたりしています。
ただし、実戦には参加するまでは至らず、なんだか戸惑いのある感じで。
ともかく家康から見れば「蜂須賀家」としては逆らっていないことになりますし、息子の至鎮はきっちり東軍として働いていたので、徳川政権においても所領は安堵されました。
しかし政治上のゴタゴタが嫌になったのか、関ヶ原後に頭を丸めて隠居しています。
政宗に「阿波の古狸」呼ばわりされる
そうして無事息子に跡を継がせることができたのですが、大坂の陣が終わった後に一大事が起きます。
息子の蜂須賀至鎮が先に死んでしまったのです。
元々病弱だったにもかかわらず戦や内政に追われていたため、命を縮めてしまったのかもしれません。
幸い蜂須賀忠英(ただてる)という息子(家政から見ると孫)がいたため、跡継ぎ不在による改易という最悪の事態にはなりませんでしたが、忠英はまだ九歳だったので、隠居の家政が再び家を取り仕切ることになります。
至鎮が亡くなった時点で家政は60歳を超えていたので、当時の感覚としては長老みたいな存在。
古強者好きの三代将軍・徳川家光に呼び出され、戦国の話を聞かせたこともあったそうです。
似たような立場だった伊達政宗とはあまりウマが合わなかったのか、家政は「阿波の古狸」といわれてしまっていたようで。
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『殿さま狸(著:簑輪諒)』という小説タイトルの元ネタにもなってますね(→amazon)。

殿さま狸(→amazon)
まぁ、政宗も「二股膏薬(ふたまたごうやく)=どっちにでもひっつく信頼ならないヤツ」と言われたなんて話もあるんですけどね(ボソッ)。
しかし、父親の代わりに大名になり、息子に代わって孫を育てたなんて中々できない体験ですよね。
家政の性格や人柄に関するエピソードはあまりありませんが、おそらく「家政なら何とかしてくれる」「家政なら大丈夫に違いない」と思われるような方だったのでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
国史大辞典
蜂須賀家政/wikipedia