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【蜂須賀家政】
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文禄・慶長の役に苦しむ
文禄元年(1592年)、明の征服を目指して秀吉が朝鮮へ大軍を派兵しました。
【文禄の役】の始まりです。
蜂須賀家政は文禄の役のみならず【慶長の役】にも出陣しますが、序盤の快進撃はどこへやら。兵站は不十分であり、餓死者や戦病死者が大量に出るほど酷い戦場となりました。
しかも【慶長の役】の戦闘では、思うように攻めきれなかったとして、追撃不十分という不名誉な評価もくだされてしまいます。
もはやこれ以上の戦域拡大は到底無理。
家政ら諸大名は戦線縮小を訴えたものの、秀吉には聞き入れられないどころか、家政は領国での蟄居と蔵入地没収を受けてしまいました。
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正勝以来、秀吉に忠誠を誓い続けた蜂須賀家にとっては、裏切られたような酷い仕打ちです。
そんな家政のもとに、徳川家康から見舞状が届きます。
心が揺れ動いてもおかしくない状況でしょう。
豊臣政権を牽制し、徳川に目配りをする慧眼
慶長3年(1598年)8月18日、ついに豊臣秀吉が亡くなりました。
そして翌慶長4年(1599年)には【五大老】の一人である前田利家が死去。
こうなると重石が取れたように、豊臣政権の武将たちの間で溜まっていた不平不満が再燃し始めます。
彼らの怒りの矛先は、吏僚であり、【五奉行】の一人である石田三成に向けられました。
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諸説ある【七将襲撃事件】では蜂須賀家政が名を連ねることもあります。
それだけではありません。
家政は五大老の一人である徳川家康に接近し、黒田長政や伊達政宗らと並び、徳川と姻戚関係まで結んでしまったのです。
しかし、ここで一悶着起きてしまいます。
黒田家との対立です。
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家康に接近を図った黒田長政は、家康の養女・栄姫を正室に迎えました。
その際、元の正室だった糸姫と離縁するのですが、この糸姫とは蜂須賀家政の妹だったのです。
そもそもは豊臣秀吉のもとで蜂須賀正勝と黒田官兵衛の関係が強化された婚姻が、家康のもとで組み直されるにあたり、トラブルの原因になってしまったのですね。
妹が離縁された家政は激怒し、この後、蜂須賀家と黒田家は百年以上に渡って断交となりました。
だからといって徳川との関係強化を進めないワケにはいかない。
慶長5年(1600年)6月、家康が上杉景勝を攻めるための【会津征伐】が行われることになりました。
このとき家政は、まだ15歳の嫡男・蜂須賀至鎮(よししげ)を従軍させます。
「せがれは若年ゆえ、お供に加えていただけませぬか」
実質的に至鎮にとっては大事な初陣。
家康にとってもありがたい提案です。
豊臣秀吉と縁が深い蜂須賀家の子息が家康に従うのですから、蜂須賀に続けとばかりに周囲が靡いてもおかしくはない。
むろん、この時点で【関ヶ原の戦い】になることなど誰も予想ついていません。それでも蜂須賀家を味方に引き入れておいて損などあるはずのない話でした。
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