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【蜂須賀家政】
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東軍か? 西軍か? 翻弄される蜂須賀氏
かくして息子の至鎮を徳川に従軍させた蜂須賀家政。
自らは大坂城に残ると、毛利輝元に対して「西軍に参加しない」ように書状をしたためますが、輝元がそれを受け取る前に、入れ違いで大坂へ入城してしまう。
もしも輝元が書状を受け取り、家政の諫言に従っていたら?
言うまでもなく西軍は一気に弱体化していたことでしょう。豊臣政権における蜂須賀家の大きさを考慮すれば、全くあり得ない話ではありません。
しかし、既に事態は動き始めています。
大坂城には毛利輝元が鎮座して、家政もジッと待つのみ。
三成からは「秀頼の名義」で味方につくよう命じられましたが、息子を家康に従軍させていて困惑するばかりの家政に、前田玄以がこう告げます。
「阿波国を秀頼公に返し、大坂屋敷から出ていくがよい」
もはや玄以の提言に乗るしかないか……。
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わずかな供回りと共に大坂を脱出した家政が、高野山で剃髪出家をすると、阿波国には毛利勢が入り、依然として西軍に属することを求められます。
もはや絶対絶命――。
【関ヶ原の戦い】が起きたのは、そんな切羽詰まった状況下。
東軍の勝利により、蜂須賀家はギリギリで窮地を脱することができたのです。
わずか18騎ながら、至鎮が東軍に参加していたこともあり、天下分け目を無事に東軍として切り抜けた扱いとなりました。
家政は、これを機に嫡子・至鎮に家督を譲り、隠居へ。
ギリギリの攻防により、蜂須賀家は戦国期最後の難局を泳ぎ切ったのです。
慶長19年(1614年)に始まった【大坂の陣】でもぬかりなく、西軍の誘いには一切応じず、駿府の家康へ情報を提供。
翌年、夏の陣が終わって豊臣が滅びると、その戦功により、蜂須賀家は淡路一国も与えられ、25万7千石に加増されました。
長寿の家政は、戦国の生き残りとして徳川家光の御伽衆として侍ることもあったほど。
そして寛永15年(1638年)に大往生を遂げました。
享年81。
家政亡き後も、蜂須賀家の徳島藩は、西国の外様大名として明治維新まで残ったのでした。
乱世を泳ぎ切る冴えた判断力
【関ヶ原の戦い】における蜂須賀家の戦闘貢献度は決して高くありません。
若年であり初陣ともいえる蜂須賀家政の息子・至鎮が従軍。
兵数も非常に少ないものでした。
しかし、それでも評価は低くありません。
西軍についても不思議ではなかった蜂須賀家が東軍についたというだけで、家康にとっては非常に大きなアピール要素となる。
家政は、豊臣政権内で発言権があり、重視されていたのでしょう。
父の正勝以来、秀吉の側近として仕えていた役割は小さくありません。
そんなポジションから徳川へ鞍替えしていくタイミングもよかったのか。
実に世渡りが巧みであり、家政に対する「阿波の古狸」という呼び名は、伊達政宗が言い出したともされています。
東の外様大大名であり、独特のセンスの持ち主である政宗。
彼にとって、西の外様大大名である家政は、くせのある厄介なライバルに思えたのかもしれません。
政宗が家政を意識するとすれば、三代将軍・徳川家光相手に「いやあ、昔は色々ありましたね」と合戦話を語るときでしょう。
家政にせよ、政宗にせよ、あの時代を生き延びたからには、狡猾さがあっても全く不思議ではありません。
父と異なりフィクションでの影は薄いものの、それが惜しまれる世渡り上手なのが、この蜂須賀家政といえます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
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他