【編集部より】
織田信長の足跡を「お城視点」から分析してみよう!という当企画。
戦国時代の城は、軍事的にも政治的にも最重要拠点であるからして、その展開を見れば、信長の思考も自然に浮かび上がってくるということで、今回はかの有名な「姉川の戦い」にスポットをあてました。
よろしければ過去記事と合わせて御覧ください。
「いつになったら安土城やるんだ!」「安心してください、いろいろ仕込んでます」
シリーズも第6回を迎え、そろそろ安土城をご紹介!
と思いましたが、信長の築城思想を垣間見ることのできる支城群の動きや、他の城郭戦を見ていくと、より一層リアルな安土城が浮かんできます。
てなわけで今回は信長の城郭戦と姉川の戦いを中心に追っていきたいと思います。

赤が織田勢力下の城で、青が浅井方。彼等の裏切りで美濃―京都間は分断されてしまう©2015Google,ZENRIN
朝倉を討つべく軍を北に兵を向けた織田信長。浅井長政の突然の裏切りにより命からがら岐阜に逃げ帰ると、早速、反撃に出ます。
が、これまで北近江は信長の戦略外でしたので、新たに同地方攻略の戦略も立てられました。
まず最重要課題は岐阜城と二条城を結ぶルートの確保です。それもただの連絡路ではいけません。ようやく自前の家臣団と軍事力を持ち始めたとはいえまだまだ非力な足利義昭の権威の後ろ盾として、織田家の軍事力は必須。
現代でもそうですが、巨大な軍事力が背景にあってこその強い権威と外交力なのです。そして何かあったら常に織田軍団が畿内に駆けつけるぞ、という安全保障があってこそ、織田家と足利将軍家による畿内支配、すなわち天下布武が成り立つのです。
そのため岐阜城と二条城を結ぶルートは、素早い進軍が可能かつ安全な軍用道路でなくてはなりません。
美濃から京へ至る道は、信長が金ヶ崎から逃げ帰った千草峠越えなど複数ありますが、やはり重要なのは美濃から関ヶ原を抜けて琵琶湖沿いに南下して南近江から上洛するルートです。
この道は今のところ、二条城-宇佐山城-長原城-長光寺城-旧安土城までは織田家の重臣を各地に置いて保持していますが、石部城や鯰江城には六角義賢、義治父子が潜み、ゲリラ戦の根城となっておりました。
佐久間信盛や柴田勝家らの奮闘で今のところ南近江ゲリラはなりを潜めていますが、観音寺城の北、愛知川の先の佐和山城や横山城は浅井家が支配しており、南近江から岐阜城へ至る軍用道路はここで完全に断たれてしまいます。
ということで、信長の今回のミッションは、まず京への進軍ルートを回復すること。これから始まる浅井・朝倉連合軍との戦いは、裏切りへの報復や恨みというアウトレイジな理由よりも、畿内を勢力圏に置く「天下布武」の運営上、必要な措置なのです。
近江―美濃国境の最前線化で新たな城が登場!
次に裏切り後の浅井家の戦略をみてみましょう。
浅井家の方針は基本的には変わりません。北近江と琵琶湖の経営を維持することです。北近江外への領土拡大の意図はありません。
しかし領土内への織田家の軍事侵攻は絶対に許せません。ここで浅井家の北近江を取り巻く地政学について少し詳しく見てみましょう。
琵琶湖東岸の小谷城を本拠地に、北部は北国街道で越前に繋がり、南部は琵琶湖沿いに南下して南近江に繋がります。途中で東山道が東へ分岐して、これが美濃へとつながります。
東部は軍の進軍が不可能な山岳地帯で、唯一、関ヶ原経由の隘路で美濃に至ります。西部は広大な琵琶湖が広がります。
浅井家の地理的特徴として、この琵琶湖が重要です。
関西圏への単なる水瓶だと侮ってはいけません。琵琶湖は莫大なカネを生むのです。
琵琶湖の水運は敦賀と京、大坂を結ぶ巨大な商業利権を生み、堅田衆などの琵琶湖の水運や漁業権を担った湖族を生み出しました。
浅井家はこの湖族の権利を保証し、彼らの信仰の中心でもある竹生島信仰の最大の後援者となることによって、味方に付けて琵琶湖全体をゆる~く支配しています。
つまり浅井家の支配圏は琵琶湖そのものに加えて、琵琶湖の西岸や南岸各地の港町も浅井の勢力圏と考えなくてはなりません。
琵琶湖にへばりつくように細長くつながる土地だけが浅井家の領地ではないのです。西部は琵琶湖を含む比叡山の麓が国境であり浅井家の勢力圏なのです。
では、隣り合う比叡山との関係はどうでしょうか。
古来より近江には寺院の荘園領地が各地に散らばっていました。もちろん比叡山延暦寺の寺社領もあります。
寺社領には代官を置きます。代官が独立して戦国領主となることもありますが延暦寺の寺社領は延暦寺の支配下で厳格に管理されていました。
そのような寺社領が散らばる近江でも、浅井家は彼らの土地を奪うのではなく、所有を保証することで北近江の支配権を確立してきました。
じゃあ浅井家なんていらないじゃん?
と思いますが、国人衆同士の土地の境目争いが起こっても、戦国時代には裁判所もなければ奉行所もありません。もはや機能していない守護に相談してもなしのつぶてですので、京に出向いて将軍にお伺いを立てるわけにもいきません。
そんなとき公明正大にジャッジできて地元の事情にも詳しい人物がいると話が早いわけです。それが浅井家の存在意義です。
浅井家がトップダウンの組織ではなく北近江の国人衆の連合組織なのはそういう理由です。そのようなゆる~い支配で浅井家は北近江の支配権を保ってきたので、延暦寺との関係も良好なのです。
ということで浅井家は、北部の越前、若狭方面は今や盟友となった朝倉家、西部は延暦寺と友好関係にあるので、美濃方面からの織田方の侵入を阻止するのが肝なワケです。
その際、横山城を対美濃方面の最前線の城として、また佐和山城をかろうじて信長が維持している対南近江の最前線の城として、織田方諸城の陥落が大戦略となります。
そのために今や主人なき南近江の国人衆や寺社勢力に対しても権利を保証することで次々と味方にしていきます。かつて浅井家の天敵で、織田家に対してゲリラ活動を展開する六角家さえも味方にします。
長々と書きましたが、もうお気づきでしょう。浅井家はこの時点で決して孤立していたわけではないのです。
織田家を裏切った理由も感情的なものではなくて、勝算あっての裏切りだったことがお分かり頂けたでしょうか。
実は典型的な城郭戦だった!? 姉川の戦い
浅井家は美濃方面からの後詰めルートを遮断するためにいち早く動きました。
交通の要衝「関ヶ原」を抜ける伊吹山周辺の防衛のために「刈安尾城(かりやすおじょう)」と「長比城(たけくらべじょう)」を築城。
これらは朝倉家による築城と云われています。
刈安尾城は北近江守護、京極高清の居館「上平寺館」の詰めの城があったところで、関ヶ原方面まで見渡せる場所に位置しています。ここで美濃から北国街道へ出る道を封鎖しましました。
一方、長比城は美濃から京へ向かう東山道を封鎖します。そして織田家と同盟していた頃には小谷城と佐和山城のつなぎの城でしかなかった「横山城」を改修して北近江~美濃国境にフタをします。
仮に、このフタが破られても、背後の鎌刃城と佐和山城で待ち構え、その後詰めとして本城の小谷城から軍勢を繰り出して南下する織田方の背後を襲うことが可能です。
これに対し織田方は、小谷城と佐和山城を結ぶ縦のライン上に出てこなければ京どころか南近江にすら進軍できません。
このように浅井家は関ヶ原周辺を二つの陣城と横山城で危険なデルタ地帯を造り、待ち構えていました。
しかしこの浅井家の防衛戦略が間違いだったことがすぐに露呈します。実は軍事的に攻め寄せる敵に対して自領に城を構えて待ち受ける戦略は良策ではありません。
どこがまずい戦略なん?と思われるかもしれませんが、自領に城を構えることは、「これ以上先に進みません・絶対にこちらから攻めません」と宣言するようなものです。和睦中であればそれでもよいでしょう(といっても和睦中であれば城を構えることはしませんが)。
しかし今は交戦中。信長が対斉藤家では何度も危険を冒して木曽川の向こうに橋頭堡を築こうとしたように、また、武田信玄があえて敵地に旭山城や海津城を築いて領有を既成事実化したように、自領の外でのアクションが必要です。
領土的野心がなく、防衛に徹する場合でも上杉謙信のように度々最前線を越えて敵領内へ侵入して敵陣を破壊して、進攻の代償が高くつくことを見せつけることが重要です。
侵攻を狙う者は常に自軍の侵攻と共に、敵からの反撃への防衛を考えて戦略を練ります。
相手に反撃の意志なしと分かれば侵攻にのみ専念でき、攻めの戦略だけを立てればいいのです。たとえ防衛が主目的でも、反撃可能な意志を敵地で示さなければ相手を怯ませることができないのです。
このように本当に自領を守りたいのであれば最前線の城は鉄壁の防御ではなく「攻めの城」でなくてはなりません。分厚いコンクリートで固めた要塞ではなく、空母やイージス艦の要素が城になくてはならないのです。
信長が稲葉山城攻略に手こずったのも稲葉山城がイージス艦のように機能して、再三の信長の侵攻を、稲葉山城のはるか手前で防ぐことがてきたからというのは以前に紹介しました(コチラを参照)。しかしせっかくのイージス艦も運用する者が無能だと機能しません。斎藤道三や義龍には運用できても龍興には荷が重過ぎました。
浅井家はどうでしょうか。
智謀に優れる浅井久政と戦上手の長政。そんな最高の運用者がおりながら、浅井家は美濃との国境を分厚いコンクリートで固めてしまいました。
長政の祖父・浅井亮政の時代には、当時新興の美濃斉藤家に対して度々国境を越えて軍勢を繰り出していたのです。こうして北近江国境を美濃勢から守ってきた先例があったにも関わらず、今回は国境の手前を固めるという誤った戦略をとってしまいました。
もっとも刈安尾城と長比城は越前衆による築城との記録に従えば、浅井家にとっては愚策でも朝倉家にとってはベストな選択です。朝倉家にとって北近江そのものを越前防衛の緩衝地帯と定めて織田家との決戦の場に設定すれば越前に戦乱は及ばないからです。
浅井長政はこの朝倉家中心の戦略に気づいていたのか、反対にも関わらずごり押しで築城されたのか、もしくは全く理解できずにお人好しにも築城を承知したのかは分かりません。両城の築城が「誰得?」と問われれば、間髪入れずに「朝倉家得!」と答えられる築城位置なのです。
いずれにせよこの防衛戦略をみても、信長が長政を小心者呼ばわりした人物評価は的を得ていたと思います。
それでは浅井長政にとってベストな選択は何だったのでしょうか。
亮政時代の戦略を踏襲すれば、信長が金ヶ崎から岐阜城にたどり着く前に美濃に侵入し、大垣あたりまで西美濃を荒らしまくるか、長政自ら全軍を率いて関ヶ原の隘路で待ち構え、決戦に持ち込むべきでした。
信長は必ず京への進軍ルートの確保に出てきます。相手の出方が分かっていることほど戦略が立てやすいことはありません。
また、個々の戦闘力では決して負けてはいない北近江兵ですが、織田信長の動員兵力(尾張、美濃、伊勢、援軍の徳川家)を考えると数に劣ることは明らかです。少ない兵力が大軍を相手にするときは、相手に包囲されないことが最も重要です。包囲されないためには相手が留守の時に攻勢に出つつ、後退して関ヶ原付近の隘路で待ち構えるべきで、自領に引きこもるだけで何もしないのは最も拙い選択です。
長政が攻勢に出てこないことが分かると信長は京に向けて全力で侵攻します。そして信長は浅井家の第二の失策をつきます。
浅井のデルタ諸城に配置したのはその地域を領地に持つ地元の国人衆・樋口直房とその家臣・堀秀村でした。この二名を竹中半兵衛重治が短期間で調略します。
「さすが半兵衛!軍師様!」と言いたいところですが、これはほとばしる智謀というより竹中家代々の領地が北近江との国境付近の「菩提山城」にあることがミソです。
国は違えど領地が隣り合う竹中重治と樋口直房は顔見知りなのです。しかも竹中は稲葉山城を乗っ取った後に斉藤家を出奔し、しばらく樋口直房の食客になっていたという仲でもあります。顔見知りどころか両者には国境を超えた熱い友情さえ感じます。
堀秀村は「鎌刃城(かまはじょう)」という、名前だけみると血が滴り落ちてくるようなスプラッターな城名の城主です。文字通り鎌の刃のような縄張りをしているのでこの名称になりました。
鎌刃城は佐和山城同様に、南近江との最前線に位置して、浅井―六角間で何度も奪い合いになった城でもあります。堀家は先祖代々、六角家についたり浅井家についたりを長年繰り返し、戦国の世を泳いできました。こんな堀秀村に「裏切るなよ!絶対に裏切るなよ!絶対だぞ!」と指示してもダチョウ倶楽部的展開になるのは目に見えています。
浅井長政は、樋口直房の領地だからといって最前線の重要な城の管理を現地人に任せるのではなく、磯野員昌や阿閉貞征レベルの重臣に任せるべきでした。もしくは長政自ら本隊を率いて入城すべきでした。
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しかしそれができなかったのが浅井家のゆる~い支配のデメリットです。