歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

イラスト・富永商太

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

征韓論の真実&目的をスッキリ解説!どんな経緯で明治六年の政変は起きた?

更新日:

明治維新が終わったあと。
一致団結して新たな国作りに向かう――と思われた明治新政府と日本は、実のところガタガタでした。

当時から反対論の大きかった武力倒幕によって、被害を受けた東北地方は政治も経済も停滞。

さらには「岩倉使節団」の派遣によって政府首脳(岩倉具視大久保利通木戸孝允大隈重信)が1年10ヶ月も不在となったため、国内では不満が鬱積します。

【関連記事】岩倉使節団はトホホでお粗末

政府はこうした佐幕藩の反発には目を光らせており、北海道開拓を担わせるといった対策を取っておりました。

しかし、より深刻な反発の温床となったのは、むしろ西日本の士族です。

【関連記事】
不平士族の反乱マトメ
廃刀令

江戸っ子こと東京の民衆は、こうした反乱に喝采を送るほど。
日本は一丸になるどころか、明治初期は分裂しておりました。

そんな中でも最大の衝撃が【西南戦争】であり、その契機となった
征韓論
でしょう。

征韓論とは、一体なんだったのか?
まずは3ステップでその趣旨をマトメてみます……。

①朝鮮が日本からの国書受理を拒否したことがキッカケで対朝鮮の外交論が浮上

②板垣退助は、朝鮮に出兵して居留民を保護せよと主張する

③西郷は「単身で朝鮮に乗り込み話をつけてくる!」と意見を強行

かくして一度は西郷の遣韓大使任命が留守政府内で決まったのですが、重大な国策なので岩倉使節団の帰国を待つことに――。

結果、西郷たちの意見が却下されます。

この【征韓論】を受けて、西郷隆盛ら政府首脳や配下の者たちが政府を下野した一連の政局を【明治六年の政変】と呼ぶワケですが……。

要は、対朝鮮外交を巡る政府内の意見の食い違いってやつですね。

となると
『なーんだ権力争いじゃん!』
ってな風にも思われがちですが、ジックリ見てみると、コトはそう単純ではありません。

そこには明治初期の安定しない政治状況が深く関わっていたのでした。

 

病める巨人・西郷隆盛

西郷は、上野公園に建っている銅像のように、大らかでどっしりとしたイメージがあります。

しかし、こうした“西郷像”が適切なのかどうか、実は検討が必要です。

なんせ銅像の完成直後からして、夫人・西郷糸子に「夫とはまるで似ていない」と評され、最近は、西郷の性格そのものについても同様の議論が活発になっています。

【関連記事】
岩山糸(西郷糸子)
西郷隆盛は「浴衣で散歩なんてしてない」と漏らした妻・糸子のホンネ

若い頃は明るい薩摩隼人だった西郷も、二度の流刑や明治維新に至るまでの苦難を乗り越えるうちに、変貌していったと解釈されるのです。

心身ともに病に冒され、特に明治維新以降は言動が不安定になっていきました。

「征韓論」について考える時、こうした西郷の心身の不安定性は欠かせない。
ゆえに、最初に触れさせていただきました。

詳細は以下の関連記事をご覧ください。

【関連記事】
西郷隆盛は英雄というより中間管理職的な?板挟みストレスに悩まされた後半生

 

スポンサーリンク

追い詰められた西郷

岩倉使節団がアメリカやヨーロッパを歴訪していた、明治時代初期。
国内に残っていた西郷は、旧主である島津久光の対応に苦しめられておりました。

【関連記事】島津久光

例えば久光は、明治維新のあと自分が将軍になれないことに失望した――なんて話があります。

が、実際の久光は、そこまで愚かな人物ではありません。
将軍になれなかったことよりも、家臣の言動や明治政府の政策に不信感を抱いていたのです。

そして久光の言い分にも、仕方の無いところはあります。

西郷や大久保利通といった薩摩藩の上層部は、藩主父子の意見を無視し、同盟相手である長州藩の意を汲んで行動することがあったのです。

明治維新以降、彼らは日本の伝統的なやり方を軽視。
万事西洋流を真似ようとしているところも、久光にとっては大きな不満点となりました。

【関連記事】武力倒幕

島津久光/wikipediaより引用

久光は西郷の忘恩を糾弾し、謝罪状の提出まで要求しました。
留守を守る中、こうした久光の言動にさらされ続けた西郷は、ストレスのあまり現実逃避的になっていても、無理のない状況でした。

しかも、征韓論前夜の西郷は高脂血症と診断され、下剤の服用も含めた過激なダイエットをしなければなりません。
豚肉が好物であった彼にとって、ストレスの溜まりやすい状況だったでしょう。

ゆえに征韓論とは、西郷が苦しみに満ちた人生から逃避するため、死に場所を求めていたのではなかったのか――そう解釈されることもあるほどです。

 

直面する領土問題

征韓論以前にも、明治政府は外交問題に直面していました。

西郷が反発を覚えたのは、まさにそれ。
樺太問題です――。

近年、徳川幕府の外交問題は、黒船の来航より、ロシアの方が先だったことに注目が集まってます。
樺太では、ロシア人の暴行問題等があり、明治新政府が早急に解決すべき課題でした。

江戸~明治の日露関係史はアイヌを見落としがち!ゴールデンカムイを機に振り返る

そこで明治3年(1870年)には、明治天皇御前で樺太・朝鮮問題の評議がなされています。
御前で評議したからには、早急な解決が求められたワケで、朝鮮に先行したのが樺太でした。

しかし、です。
そのタイミングで英国大使のパークスが強引に干渉してきます。

結果、明治8年(1875年)に日ロ間で「樺太・千島交換条約」が成立し、樺太はロシア領となりました。
当時の日本政府には樺太開発は不可能であったため、仕方ないという見方もありますが、もう少し慎重に見るべきかもしれません。

この樺太関連交渉で乗り込んで来たパークスに、西郷は冷たい目線を向けておりました。
樺太を日本領として開発すべきだと主張していた外務大丞(だいじょう)・丸山作楽も、後に征韓論が原因で失脚しています。

明治政府の外交問題に関する対立は、実は樺太問題の頃あたりから潜在していたのです。

さらに明治5年(1872年)には、琉球の漁民が台湾原住民に殺害される事件が発生し、台湾問題も浮上して来ます。

明治時代というのは、日本を取り囲む国々との問題が浮上した時代だったんですね。

そこで
【まとまらない国内を一つにするためにも、対外的に強硬姿勢に出るべきではないか――】
という征韓論が盛り上がってくるワケですが、そもそも最初にそう主張したのは西郷隆盛ではありません。

明治2年の段階で、木戸孝允もそう考えていたのです。
領土拡張こそ、新生日本の取るべき道だという考え方は、実は長州から生まれていました。

 

スポンサーリンク

明治日本は、領土拡張しか道はなかったのだろうか?

明治維新以降、日本はアジアの他国に目を向け、領土拡大を目指しておりました。
このあたりの発想の元をたどると、吉田松陰の『幽囚録』あたりに行き着きます。

【関連記事】吉田松陰

◆軍備増強
◆蝦夷(北海道)の地を開墾・開発
◆カムチャッカ・オホーツク領土を奪う
◆琉球併合
◆朝鮮を朝貢させる
◆北は満州、南は台湾・ルソンを支配下に置く

こうした松陰の思想は、同時代の佐久間象山すら危険視するものでした。

松陰の思想を受け継いだ久坂玄瑞
その久坂と面談した赤松小三郎は、彼らの思想に呆れ果てます。自分と意見が異なると攘夷に反対すると決めつけ、必要以上に敵視するのです。

【関連記事】
久坂玄瑞
赤松小三郎

これは松陰独自の発想でした。

例えば、同時代の幕臣であった岩瀬忠震はどういう考えであったかと言いますと。

◆日本から世界各地に向かって、輸出の利益を高める
◆世界でも信義ある国と同盟し、孤立していて弱い国は助ける
◆国民をより一層鍛錬し、北海道を開拓し、我が国の道徳心で西洋の貪欲な植民地支配を改めさせ、五大洲中の一帝国を目指す

植民地支配とはちがう、東洋的な道徳心による進出を目指していたわけです。
東洋的な儒教思想の目指す「仁政」による統治は、横井小楠も目指していたところでした。

【関連記事】横井小楠

少々、回りくどくなりましたが……。
吉田松陰のような、西洋的植民地支配と軍備拡張による日本の拡大について、当時の人が皆賛同したわけじゃないということです。

むしろ当時から、別のやり方があるはずではないか――そんな模索も続いておりました。
このことは「征韓論」を考えるうえでも、脳裏に入れておいていただければと思います。




スポンサーリンク


領土拡張以外の道がなかったわけではなく、結果的にそうなってしまったことなのです。

次のページへ >

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




×

-西郷どん(せごどん)特集, 幕末・維新

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2018 All Rights Reserved.