征韓論と明治六年の政変

西郷隆盛(石川静正画の油彩)/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷は死に場所を探していた? 征韓論と明治六年の政変で新政府はガタガタに

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直面する領土問題

征韓論以前にも、明治政府は外交問題に直面していました。

西郷が反発を覚えたのは、まさにそれ。

樺太問題です――。

近年、徳川幕府の外交問題は、黒船の来航より、ロシアの方が先だったことに注目が集まってます。

樺太では、ロシア人の暴行問題等があり、明治新政府が早急に解決すべき課題でした。

そこで明治3年(1870年)には、明治天皇御前で樺太・朝鮮問題の評議がなされています。

御前で評議したからには、早急な解決が求められたワケで、朝鮮に先行したのが樺太でした。

しかし、です。

そのタイミングで英国大使のハリー・パークスが強引に干渉してきます。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

結果、明治8年(1875年)に日ロ間で【樺太・千島交換条約】が成立し、樺太はロシア領となりました。

当時の日本政府には樺太開発は不可能であったため、仕方ないという見方もありますが、もう少し慎重に見るべきかもしれません。

この樺太関連交渉で乗り込んで来たパークスに、西郷は冷たい目線を向けておりました。

樺太を日本領として開発すべきだと主張していた外務大丞(だいじょう)・丸山作楽も、後に征韓論が原因で失脚しています。

明治政府の外交問題に関する対立は、実は樺太問題の頃あたりから潜在していたのです。

 

さらに明治5年(1872年)には、琉球の漁民が台湾原住民に殺害される事件が発生し、台湾問題も浮上して来ます。

明治時代というのは、日本を取り囲む国々との問題が浮上した時代だったんですね。

そこで盛り上がったのが征韓論。

【まとまらない国内を一つにするためにも、対外的に強硬姿勢に出るべきではないか――】

そもそも最初にそう主張したのは西郷隆盛ではありません。

明治2年の段階で、木戸孝允もそう考えていたのです。

木戸孝允/国立国会図書館蔵

領土拡張こそ、新生日本の取るべき道だという考え方は、実は長州から生まれていました。

 


領土拡張しか道はなかったのか?

明治維新以降、日本はアジアの他国に目を向け、領土拡大を目指しておりました。

このあたりの発想の元をたどると、吉田松陰の『幽囚録』あたりに行き着きます。

吉田松陰/wikipediaより引用

◆軍備増強

◆蝦夷(北海道)の地を開墾・開発

◆カムチャッカ・オホーツク領土を奪う

◆琉球併合

◆朝鮮を朝貢させる

◆北は満州、南は台湾・ルソンを支配下に置く

こうした松陰の思想は、同時代の佐久間象山すら危険視するものでした。

松陰の思想を受け継いだ久坂玄瑞

その久坂と面談した赤松小三郎は、彼らの思想に呆れ果てます。自分と意見が異なると攘夷に反対すると決めつけ、必要以上に敵視するのです。

赤松小三郎/wikipediaより引用

これは松陰独自の発想でした。

例えば、同時代の幕臣であった岩瀬忠震はどういう考えであったかと言いますと。

◆日本から世界各地に向かって、輸出の利益を高める

◆世界でも信義ある国と同盟し、孤立していて弱い国は助ける

◆国民をより一層鍛錬し、北海道を開拓し、我が国の道徳心で西洋の貪欲な植民地支配を改めさせ、五大洲中の一帝国を目指す

植民地支配とはちがう、東洋的な道徳心による進出を目指していたわけです。

東洋的な儒教思想の目指す「仁政」による統治は、横井小楠も目指していたところでした。

少々、回りくどくなりましたが……。

吉田松陰のような、西洋的植民地支配と軍備拡張による日本の拡大について、当時の人が皆、賛同したわけじゃないということです。

むしろ当時から、別のやり方があるはずではないか――そんな模索も続いておりました。

このことは「征韓論」を考えるうえでも、脳裏に入れておいていただければと思います。

領土拡張以外の道がなかったわけではなく、結果的にそうなってしまったことなのです。

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