ペリー来航によって日米和親条約が結ばれ、時代の波が急激にうねり始めた幕末。
幕府にとって大きな痛手になったのが安政4年(1857年)でした。
頭脳明晰かつ性格も温和で、万人に好かれるタイプの調整名人・阿部正弘が、若くして急死してしまったのです。

阿部正弘/wikipediaより引用
その後、阿部に代わって幕政を切り盛りした家老たちが、政権内の対立をうまく処断できなかったのは今なおよく知られるところでしょう。
とりわけ大きかったのが、将軍継嗣問題から発展して起きた大老・井伊直弼の【安政の大獄(1858~1859年)】。
翌1860年には、その井伊自身が【桜田門外の変】で暗殺されてしまったのですから、
『もしも阿部が生きていたら』
と考えてしまうのも無理なきところです。
ただし、阿部正弘の後任者たちが無能だったと断じてしまうのは早計。
幕府には他に優秀な人物もおります。
当時、江戸幕府が直面していた局面があまりに難しい状況だっただけで、阿部だって、もしもそのとき生きていたら上手く対処できたかどうかは不明でしょう。
今回は、元治元年(1864年)3月21日が命日――阿部正弘の跡を継いだ老中・堀田正睦(まさよし)にスポットを当てたいと思います。

堀田正睦/wikipediaより引用
佐倉の「蘭癖大名」
堀田は文化7年(1810年)、下総佐倉藩主・堀田正時の次男として生まれました。
母は藩士・源田右内光寿の娘。
はじめは正篤と言いましたが、薩摩の姫から徳川家定の御台所になった篤姫の名を避けるために改名しております。
母は健康な女性であったようで、その母に似た堀田も健やかに育ちました。
文政7年(1824年)、父・正時のあとを継いだ従兄・正愛の養子となり、翌年、正愛の跡を継いで、佐倉11万石の藩主に就任します。
そのころ、佐倉藩は荒れ果て、藩政改革の必要に迫られていました。
堀田は天保4年(1833年)より、藩政改革に取り組みます。
主な内容は、以下の通りです。
・藩士に貸付金を与えて、家計を扶助
・倹約を奨励
・文武を奨励
・学制改革を実施、従来の藩校「温故堂」の拡充とカリキュラム見直し
・江戸と翌年佐倉に「成徳書院」。儒学を基本として礼節・書学・数学および各種の武芸を教える
・医学所整備。佐藤泰然を招いて蘭方医学を採用
・泰然が私塾「順天堂」を開いたため、佐倉は幕末蘭学の一大中心地となる
・「陰徳講」を組織して育児を奨励。「子育掛代官」を設置、間引きの禁止と農村人口の回復をはかるという、少子化対策の実施
・「勧農掛」の設置
・篤農家や豪農層を勧農役に任命し、農村復興にあたらせる
・社倉や囲米など備荒貯穀政策の実施
・領内豪農商層を育成し、領国経済の自立化を目指す
堀田の改革は実を結びました。
特に蘭学の奨励はめざましい成果をあげ「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほどにまで充実するのです。
ちなみに「順天堂」は、現在の順天堂大学(→link)の前身にあたります。
藩政から幕政へ
こうした成果を認められた堀田は、藩政だけではなく幕政にも関わるようになります。
が、結論から申しますと、水野忠邦【天保の改革】に連座。すぐに失脚してしまいます。
足早に年表で説明しますと、こんな流れであります。
・文政12年(1829年) 奏者番
・天保5年(1834年) 寺社奉行を兼帯
・天保8年(1837年) 大坂城代、西ノ丸老中
・天保12年(1841年) 水野忠邦の推挙で本丸老中に就任、天保の改革期の幕政に関与する
・天保14年(1843年) 「上知令」の撤回により改革が失敗し、老中を罷免
老中を罷免され、藩政に戻った堀田。
それが再び幕政に呼び戻されたのは、10年後の嘉永6年(1853年)、阿部正弘が身分を問わず多くの人に意見を求めた時でした。
勝海舟の飛躍となったのもこのとき。

勝海舟/wikipediaより引用
荒唐無稽な攘夷論が噴出する中、堀田や勝の政策提言は明確でした。
「武備を整える必要があります。同時に開国をせねば国は発展しません。そのうえで通商を行い、富をたくわえるのです」
これは光るアイデアだと阿部は納得しました。
同時に堀田を幕政へ戻すべきと考えたのです。
「京都の朝廷の意見も聞かないといかんよ」
引き立てて間もなく阿部は急死してしまいました。
その後、堀田は阿部のやり残した仕事に着手。
意外かもしれませんが、開明的で「蘭癖大名」と呼ばれていた堀田は、ガチガチ攘夷論者の徳川斉昭と気が合うはずもありません。

徳川斉昭/wikipediaより引用
阿部は、その強弱を巧みにコントロールしておりましたが、足を引っ張りかねない斉昭を、堀田は幕政から追い出します。
「これからは軍政や海防改革に口出し無用」とキッパリと断ったのでした。
当然、徳川斉昭もブチ切れるわけで「おのれ堀田め! いずれ蹴落としてやる!」とばかりに歯がみしながら去ってゆきました。
これはむしろ、狂犬・斉昭すら手綱に取っていた阿部正弘のコントロール術が特別過ぎたのであって、堀田にとってはやむを得ない決断だったのではないでしょうか。
このあとで直面するべき問題は、将軍継嗣問題とアメリカとの条約問題です。
1853年の日米和親条約に続く、日米通商修好条約。
岩瀬忠震を用いて、アメリカ側のハリスと交渉をまとめた堀田でしたが、諸大名からこんな意見が出てきました。

日米修好通商条約を交渉したハリス(左)と岩瀬忠震/wikipediaより引用
「そういう重大事は、京都の朝廷の意見も聞かねばならぬのではないか」
それもそのはず、幕府は朝廷丸無視で開国しようとしていたのです。
6万両の工作資金を持って
安政5年(1858年)、ざっくりと条約案をまとめた堀田は、岩瀬忠震・川路聖謨らと共に、勅許をもらうため京都へ向かいます。
これぞ堀田追い落としのチャンスだとほくそ笑む人がいました。
徳川斉昭です。
そして、貧困にあえぐ公家たちでした。
当時の京都の公家というのは、ともかく貧乏であり、二百年以上も幕府に押されっぱなしのため生活は苦しいものでした。
未来の明治天皇すら、出産時に費用が不足しており、食費を切り詰めてまで工面した……という話すらあるほどです。

束帯姿の明治天皇/wikipediaより引用
そんな中、東から徳川家が頭を下げて意見を聞きに来るわけですから、そりゃまぁ、盛り上がりますね。
盛り上がるだけではなく、徳川斉昭が朝廷工作もしていました。
斉昭は、前関白・鷹司政道相手に、働きかけておりました。
「腰抜け幕府に、条約には断固反対だと言ってやりましょう! 汚らわしい異人どもに踏み荒らされてよいものか!」
鷹司政道の正室・徳川清子は斉昭の姉にあたります。
親戚ですから話は通じやすい……と、同時に袖の下も握らせれば尚更でしょう。
もちろん、堀田とて無策ではありません。
6万両という工作資金を握って京都に向かっています。
カネで動かない人もいるわけで
幕末の公家というと、いろいろと動いています。
もちろん志があって動いている愛国心が強い人もいたことでしょう。しかし、今も昔も、愛国を隠れ蓑にして物のを言うのは結局は金。袖の下です。
国のためを思う心が維新を成し遂げた、という物語は確かに美しい。
しかし、実際には金が乱れ飛ぶ、贈賄収賄工作の応酬であったのです。
金がなければ敗北あるのみでした。
薩摩藩や長州藩が会津藩に対して優れていた点は何か? といいますと、往々にして人材や精神論で語られがちです。
しかし、重要な点を見落としています。
借金を踏み倒し、貿易で金を貯め込んだ薩摩藩。
撫育局資金や宝蔵金があった長州藩。
一方で、ともかく不運であったのが京都守護職に任じられた会津藩。そもそも京都警護は伝統的に井伊家が果たす役割でした。それが井伊直弼が暗殺されてしまったことで、陸奥国から引っ張り出されてきたのですから、余裕があるわけがない。
藩財政を建て直した薩摩藩の調所広郷。長州の村田清風は偉大です。
話を戻しまして、当時、金では絶対に動かない人もいました。
その代表が孝明天皇です。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
ともかく強烈、日本一とも言えるほどの攘夷論者である孝明天皇が首を縦に振らなければ、いくら大金を持参したってどうにもなりません。
堀田は朝廷工作を二ヶ月間がんばりました。
そして失敗しました。
堀田は心が折れてしまいます。
「そもそも朝廷の連中はおかしい……外交感覚がない……話が全然通じない……」
そんな本音すら、吐露していました。
理解されぬ堀田の苦しみ
失意のまま江戸に戻った堀田。
そこで井伊直弼は、強行突破します。
「もう勅許なぞ無用である」
かくして幕府は、無勅許で調印を断行(1858年 日米修好通商条約)。
堀田は老中を辞任させられました。
その後は【安政の大獄】、そして【桜田門外の変】という重大事件が勃発します。この事件は徳川斉昭と水戸藩が悪い。幕府の寿命を縮めたのが御三家というのは、なんという皮肉なことでしょうか。
さらなる皮肉といえば、堀田ですら斉昭の強烈な推しに負けたのか。斉昭の愛息である一橋慶喜擁立派(【一橋派】)に数えられてしまいました。
堀田はそのため、【一橋派】が処分された【安政の大獄】に連座し、隠居に追いやられてしまいます。

井伊直弼/wikipediaより引用
しかし、井伊直弼が暗殺された翌1860年、堀田は藩政に復職し、再び改革に着手します。
それもつかの間、文久2年(1862年)、今度は、老中在職中の不届のかどで蟄居を命ぜられてしまうのでした。
すでに過ぎたことを掘り返して、今さら何なのか?
これは実質的に【安政の大獄】に対する報復人事だとされています。
そもそも堀田は、井伊直弼に目をつけられてはおらず、したがって【安政の大獄】での隠居処分も軽い部類に入ります。いずれは復帰させる予定だったとのでしょう。
そんな流れもあり、井伊直弼の反動か、「井伊の息のかかった連中はいらぬ」と報復されたとも思えなくもありません。
【黒船来航】という未曾有の危機を受けて団結するどころか、当時の日本は幕府も、諸藩も、乱れに乱れて混沌としておりました。
元治元年(1864年)、堀田は佐倉城内で死去しました。
享年55。
蟄居処分が解かれたのは、死後のことでした。
斉昭はじめ一橋派がやりすぎでは?
堀田の苦闘を見ていると、
「英雄が国のためを思っていた幕末史」
とは正反対、自分たちに有利にことを運ぶためにうごめいていた、各勢力の姿が浮かび上がってきます。
さすがの阿部であっても、その全てに調整をはかりながら、難局を乗り切るのは難しかったのではないでしょうか。
まとめてしまえばこうなります。
明治になってからの幕臣たちはこうぼやいていたものです。
「(堀田のような)幕僚が無能というのではなく、徳川斉昭と慶喜父子が徳川の世の崩壊を招いたのだ……」
水戸由来の人災――幕府滅亡の一端には、そんな要素があったのです。
幕府の中には優秀な開明派がいた。
堀田正睦もその一人でした。
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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』





