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【堀田正睦】
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理解されぬ堀田の苦しみ
失意のまま江戸に戻った堀田。
そこで井伊直弼は、強行突破します。
「もう勅許なぞ無用である」
かくして幕府は、無勅許で調印を断行(1858年 日米修好通商条約)。
堀田は老中を辞任させられました。
その後は【安政の大獄】、そして【桜田門外の変】という重大事件が勃発します。この事件は徳川斉昭と水戸藩が悪い。幕府の寿命を縮めたのが御三家というのは、なんという皮肉なことでしょうか。
さらなる皮肉といえば、堀田ですら斉昭の強烈な推しに負けたのか。斉昭の愛息である一橋慶喜擁立派(【一橋派】)に数えられてしまいました。
堀田はそのため、【一橋派】が処分された【安政の大獄】に連座し、隠居に追いやられてしまいます。

井伊直弼/wikipediaより引用
しかし、井伊直弼が暗殺された翌1860年、堀田は藩政に復職し、再び改革に着手します。
それもつかの間、文久2年(1862年)、今度は、老中在職中の不届のかどで蟄居を命ぜられてしまうのでした。
すでに過ぎたことを掘り返して、今さら何なのか?
これは実質的に【安政の大獄】に対する報復人事だとされています。
そもそも堀田は、井伊直弼に目をつけられてはおらず、したがって【安政の大獄】での隠居処分も軽い部類に入ります。いずれは復帰させる予定だったとのでしょう。
そんな流れもあり、井伊直弼の反動か、「井伊の息のかかった連中はいらぬ」と報復されたとも思えなくもありません。
【黒船来航】という未曾有の危機を受けて団結するどころか、当時の日本は幕府も、諸藩も、乱れに乱れて混沌としておりました。
元治元年(1864年)、堀田は佐倉城内で死去しました。
享年55。
蟄居処分が解かれたのは、死後のことでした。
斉昭はじめ一橋派がやりすぎでは?
堀田の苦闘を見ていると、
「英雄が国のためを思っていた幕末史」
とは正反対、自分たちに有利にことを運ぶためにうごめいていた、各勢力の姿が浮かび上がってきます。
さすがの阿部であっても、その全てに調整をはかりながら、難局を乗り切るのは難しかったのではないでしょうか。
まとめてしまえばこうなります。
明治になってからの幕臣たちはこうぼやいていたものです。
「(堀田のような)幕僚が無能というのではなく、徳川斉昭と慶喜父子が徳川の世の崩壊を招いたのだ……」
水戸由来の人災――幕府滅亡の一端には、そんな要素があったのです。
幕府の中には優秀な開明派がいた。
堀田正睦もその一人でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』