いかなる経緯でその地位に押し上げられたのか?
幕末フィクションには欠かせない徳川慶喜。
父が御三家、母が皇族という血筋から、一般的には育ちの良さが目につき、2021年大河ドラマ『青天を衝け』では”いい人”キャラとして描かれました。
しかしその評価、立場が変わればガラリと変貌。
幕臣や新選組、あるいは会津藩から見た場合、徳川慶喜こそが江戸幕府を潰した身勝手な人物――そんな評価になりがちです。
明治維新サイドから見るか、江戸幕府サイドから見るか。
これまでのフィクションでは「誰を主人公にするか?」によって慶喜の人物像も極端になりがちでしたが、現在、そのどちらでもないドラマが人気を博しています。
ドラマ10『大奥』です。
男女逆転版というSF設定でありながら、江戸時代の政治や庶民生活がギュッと凝縮されたような本作。
徳川慶喜は一体どんな評価なのか?
『大奥』原作から引用させていただくと、こうです。
「慶喜には心が無いのだ 国の民や家臣を思う心が無い者はどんなに聡くても将軍にはふさわしい器の者ではない!」
人間の善悪を示すのではなく「心が無い」とは言い得て妙かもしれません。
史実の徳川慶喜について、当人自伝の評価などを割り引くと「薄情」とか「幕府滅亡の張本人」などの意見が目立つのです。
では、実際はどんな人物だったのか?
天保8年(1837年)9月29日は慶喜が生まれた日。
本記事では、将軍になるまでの慶喜と、当時の社会状況とあわせて振り返ってみましょう。
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父は御三家の斉昭 母は吉子女王
天保8年9月29日(1837年10月28日)、江戸小石川の水戸藩上屋敷で、徳川斉昭の嫡男となる七郎麿が生まれました。
この年は【大塩平八郎の乱】が起きた時代。
大塩平八郎は【寛政異学の禁】で禁止されていた陽明学の徒でもありました。
禁止された学問を身につけ、幕政に対し武力で叛意を翻す――時代の変動を象徴する出来事と言えるでしょう。
天保9年(1838年)4月、生後7か月で慶喜は江戸から水戸に移されました。
スパルタ教育を信条とする斉昭らしい選択。厳しい言い方をすれば、幼少期の厳しいしつけが必ずしも人間性を鍛えるわけでもない、この父子からはそんな教訓も学べると言えるかもしれません。
七郎麿は幼少期から特別でした。
なんせ生母は京都から斉昭に嫁いできた吉子女王です。
長男・徳川慶篤の「控え」として斉昭の手許に置かれ、我が子の中に流れる、皇室に近い女系の血が誇りとされたのでしょう。
同じことは慶喜本人にも当てはまり、幼いころから女中に向かいこう言ってのけました。
「私は有栖川宮の孫であるぞ」
徳川将軍家は、3代家光以来、京都から正室を迎えながらも、その影響を受けることを警戒していました。
実際、正室を母とする嫡出将軍は家光以降に現れておらず、京都の外戚が幕政に口を挟むことが避けられてきたのです。
しかし、最後の将軍である慶喜の代で、その警戒心に綻びが生じてしまうのでした。
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二面性を抱えた両親と親子の関係
徳川斉昭と吉子女王の夫妻は美談に彩られています。
斉昭の勤王への思いを知り、仁孝天皇が喜んだこと。
吉子が勧めようと、斉昭は側室を置かなかったこと。
こうしたことから夫婦仲睦まじいとされたりしますが、話を鵜呑みにはできません。
斉昭は「精力絶倫」と噂されるほど、女色を好み、実際37人もの子供がいました。
しかも女性を愛し、慈しむというよりも、力づくでものにして、支配力を満たすタイプと言いましょうか。
ことに及んだ後、こう豪語していたとも伝わります。
「わしほどの男に抱かれたのだ。女冥利につきるであろう」
フィクションであれば悪役の台詞そのものですが、現実に女中たちは恐れ慄いていて、斉昭が参加する梅見では未婚者を装ったとのこと。
既婚者だとわかると、気まぐれでものにしてしまうのですから、たまったものではありません。
この夫妻の関係性を示すエピソードとして“乗馬”に関するものが残されています。
馬にまたがる妻に、夫はこう言いました。
「女が馬に乗るときは、鞍に棒を立てたら落ちないだろう」
妻はこう返します。
「御前は前壺に穴を開けたらよろしおすなぁ」
妻は夫のことを知り、あしらう術を知っていたのでしょう。
斉昭は美貌の大奥女中・唐橋に性的暴行を加えた挙句、そっと囲いものにしていたというのですからどうしようもなく、こうした行状は後に斉昭父子の足を引っ張ることになります。
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そんな二面性のある夫妻のもとで生まれた七郎麿。
彼は幼少期から尋常ならざる教育が施されていたと伝わります。
藩校・弘道館にて、会沢正志斎から文武を学ぶ英明さに、周囲の期待は高まっていた……と同時に、こんなスパルタ教育伝説があるのです。
――寝相の悪さを矯正するため、枕の両側に剃刀を置いた――。
寝返りを打つと顔が切れるというわけで、単なる虐待であり、正気の沙汰とは思えません。寝静まると家臣がそっと外したとか。
幼い子供の精神を蝕んだ可能性の方が高いでしょう。
そんな慶喜に吉報が届いたのが弘化4年(1847年)8月のこと。
9年間過ごした水戸を離れ、江戸へ向かうようにとの沙汰がありました。幕府から一橋徳川家を相続させたいとの意向が伝えられたのですが。
ことのほか可愛がっている11歳の我が子が、一橋家の世嗣となることに斉昭は大喜びでした。
年末には元服し、家慶から偏諱を賜り、「昭致」から一橋家当主・慶喜へ。
家慶は一橋邸をしばしば訪れています。男子が育たず、唯一の例外である家定も病弱だったため、慶喜を次の将軍にしたいと考えていたとされます。
しかし、老中首座の阿部正弘に止められ、断念していました。
慶喜が準主役級の扱いであった大河ドラマ『青天を衝け』では、吉幾三さんが演じる家慶が、幼い慶喜に目をかけている描写がありました。
実はこうした関係には、なかなか複雑な事情がありました。
11代・家斉の栄光時代
江戸幕府はなぜ滅んでしまったのか?
この問いに対し、明治時代を迎えて、旧幕臣たちはこう嘆いています。
徳川斉昭と、慶喜の父子が幕府倒壊の根本的原因である――。
幕末を扱ったフィクションや書籍は、大抵は【黒船来航】前夜から始まりますが、斉昭・慶喜親子の登場と考えると、それよりずっと早い段階から始まっていたことになります。
徳川慶喜にせよ、維新志士の面々にせよ、新選組にせよ。彼らの青年期と幕末が重なるとなると、【黒船来航】からマイナス20年程度が範囲となる。
しかし、さらに長いスパンで考えることで浮かび上がってくることもあります。
2023年放映のドラマ10『大奥』は、大河ドラマですらできない試みに挑みました。
それは徳川3代から15代まで描くこと。
男女逆転というSF要素がありながら、将軍の個性は新たな研究も反映させ、幕末へ向かう長いスパンを見るフィクションとして、稀有の存在と言えます。
それを踏まえて幕末へ向かう歴史の流れを振り返ってみましょう。
第11代将軍・徳川家斉というと、現在ではやたらと子女が多かった「オットセイ将軍」というイメージが強いものです。
しかし、幕末に生きていた人々からすると、天下泰平、爛熟の世のシンボルそのものでした。
世界史に目を向けると、清の乾隆帝、フランスブルボン朝のルイ14世のような存在。
この二人は全盛期に君臨したとはいえ、政治力に関して言えばそこまで高いとも言えません。むしろ後に残る負の影響も大きいものでした。
【黒船来航】よりもずっと早い段階で起きていたことです。
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