徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

徳川慶喜(一橋慶喜)77年の生涯をスッキリ解説【年表付き】大政奉還後にも注目

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徳川慶喜は天保8年(1837年)9月29日、江戸の水戸藩邸にて生誕しました。

幼名は七郎麿。
父は徳川斉昭(1800-1860年)で、母の吉子女王よしこじょおう有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうの娘です

いかにも武家バリバリという印象かもしれませんが、実は皇族の血も入っていたんですね。

幕末における水戸藩は、徳川御三家ながら、少々変わった立ち位置にあります。

同藩は国境に長い海岸線を持っていて、薩摩と同様、早い時期から黒船の来航を認知していました。外国船は、ペリー来航の前に何度も来ていたのです。

そんな水戸では、過激な「尊皇攘夷」運動が展開されます。

筆頭が藤田東湖(1806-1855年)であり、藤田の影響を受けたのが、慶喜の父・徳川斉昭でした。

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阿部正弘の口添えで11才にして一橋家を継ぐ

慶喜は、父・斉昭の方針に従い、江戸ではなく水戸で厳しく教育されました。

水戸と言えば藩校・弘道館が有名ですが、慶喜も同校へ通い、当時から優れた人物だとして知られていたのです。
それはときに「家康の再来」とも称されるものでもありました。

1847年、阿部正弘の口添えによって慶喜は11才で一橋家を相続。

一橋家とは、将軍候補を輩出する御三卿(ごさんきょう)の一つであり、他には田安家と清水家がありました。

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同家を継いだことから慶喜の運命は、やがて時代のうねりに翻弄され始めるのです。

 

将軍継嗣問題で【一橋派vs南紀派】

そして1853年――。
浦賀にペリー提督の率いる黒船がやってきました。

幕府や日本全体を揺るがすこの混乱の最中に12代将軍・徳川家慶が亡くなってしまい、跡を継いだのが病弱だった13代将軍・徳川家定
島津家・篤姫が嫁ぎ、同時に急務となったのが次の14代将軍の候補者選定です。

跡継ぎの期待できない家定に代わり、誰を次の将軍を誰にするか?

いわゆる「将軍継嗣問題」と呼ばれる問題で、候補に推されたのが

・一橋慶喜
徳川慶福(紀州藩主・過去には徳川吉宗を輩出)

の2名でした。

それぞれの支持者は

一橋派……徳川斉昭&阿部正弘&島津斉彬西郷隆盛
南紀派……井伊直弼本寿院

等となっており、最終的には南紀派が勝利します。

徳川家定後の14代将軍は、徳川慶福になりました。このとき徳川家茂(いえもち)に改名しております。

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火消しの親分・新門辰五郎とも昵懇に

なぜ慶喜の一橋派は負けたのか?

実はこの時期、阿部正弘と島津斉彬が相次いで亡くなって勢力を失い、大老となった井伊直弼に押し切られてしまったのです。

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同騒動では、西郷隆盛も粛清の波に呑まれ、元清水寺の住職・月照と共に鹿児島の海(錦江湾)へ入水しました。

そして奇跡的に一人だけ生き還ります。
西郷は、薩摩藩から腫れ物のような扱いを受け、奄美大島への島流しを余儀なくされるのでした。

一方、慶喜は1858年、日米修好通商条約に調印した井伊直弼を問い詰めて謹慎処分となるのですが、翌1859年の桜田門外の変で直弼が殺されると、1860年には謹慎も解除されました。

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親分・辰五郎を引き連れ京都へ

ほどなくして将軍後見職となり、再び勢いを取り戻した慶喜。
幕政改革に着手すると、1863年には将軍の名代として上洛し、朝廷との交渉を務め、外国嫌いで知られる孝明天皇にも会います。

ただし、本人は将軍職に乗り気ではなかったようで、かつて父の斉昭(1860年に死亡)に対し「将軍職に興味なし」と伝えております。

ちなみに、上洛のとき慶喜は、側室の芳と、その父にして江戸の人気火消し・新門辰五郎一派を率いておりました。

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辰五郎は、いわゆるアウトローたちの親分的存在でもあり、慶喜とは互いに認めあっていたというから、デキる人とは分け隔てなく付き合うという人柄だったのでしょうね。

もしかしたら、徳川の中で本当に暴れん坊将軍キャラに近いかもしれません。

 

第15代将軍になった途端に道はイバラだった

無血開城で江戸城を明け渡したせいか。
慶喜は、ときに臆病者で無能なイメージを持たれることもあります。

が、むろん決してそんなことはありません。

1864年【禁門の変】では、自ら戦場に出向いて御所守備軍を指揮、長州藩の撃退に助力しております。
戦闘そのものは会津&桑名藩 vs 長州藩という構図のところに、西郷隆盛の率いる薩摩藩も会津方に加勢し、一日で終わりました。

御所に向かって発砲した長州藩を成敗すべく、この後、幕府軍らは第一次長州征伐に出向いて完勝。
慶喜はそれからしばらく朝廷相手の交渉を請け負っていましたが、1866年に第14代将軍・家茂が死亡して、ついに徳川宗家を相続することになります。

つまり第15代将軍です。

しかし、就任した矢先から、その道はイバラそのものでした。
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