緋色の陣羽織を着た松平容保/wikipediaより引用

幕末・維新

斗南藩の生き地獄~元会津藩士たちが追いやられた御家復興という名の流刑

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激論! どこで会津藩を再興する?

そもそも会津に駐留していた西軍は、会津藩士の襲撃に悩んでおりました。

鬱陶しい会津藩士を、第二の都ともいえる猪苗代に残したところでどうでしょうか?
根性を出せば、スグにまた反乱されかねない。
そう懸念して当然です。

一方の会津藩士たちも、とにかくは御家復興が大事なワケです。
そこで東京組の会津藩家老たちは話し合いました。

山川浩(25)
広沢安任(やすとう・40)
永岡久茂(30)

「会津の猪苗代サいだら、薩長どもから反乱を起こすつもりかと、疑われちまうべした」
「んだんだんだ!」

これがまず、第一の論点でした。

明治政府は初期の頃、不平士族の反乱に悩まされました。
維新サイドの土地でもそんな状態ですから、会津藩士を地元に置き続けるなんて危険視されて当然です。

不平士族の反乱マトメ(佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争)

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もうひとつ。
幕末にロシアやフランスまで見た山川浩には、こんな考えもあったことでしょう。

「会津には海がねえ。海がありさえすれば、都合のいいこともたくさんあるべや!」

山川浩/Wikipediaより引用

海がない――。
実は会津藩士が幕末で痛感した弱点、それが海でした。

最近は原発のイメージからでしょうか。福島県には海があると一緒くたにされがちですが、会津藩は内陸。
それゆえ薩摩藩や長州藩のように海外事情に通じることもできず、ましてや海軍力となる戦艦を持つこともできず、貿易による収入増も見込めなかったのです。

この結論を、おそらくは山川自身も悔やんだはずです。
広沢安任としては、この土地を通過した経験だけはあったようですが、それでも知識が充分と限ったわけではありませんからね。

広沢安任/wikipediaより引用

現在のように、インターネットでGoogleアースを参照できるわけでもない時代。
そのあたりは察しましょう。
しかも若松県知事・四条隆平も、早く南部へ移住するよう急かしていたとか。

一方で町野ら会津在留藩士は、東京組に大反発。
実は猪苗代か南部かで揉めたのは、藩士同士だったのです。

ついには永岡と、東京まで押しかけた町野は、刀を抜き放つところまで争ったほど。
両者は譴責、謹慎処分を受けましたが、この闘争の結果、友情も芽生えたとも言います。

かくして南部地方が会津藩士の新天地となりました。

 

斗南藩――そこには何もねぇ!

南部に移住した会津藩士は、新天地を「斗南」と呼びました。

「北斗以南皆帝州」
朝敵が住まうこの土地だろうと、北斗七星を仰ぎ見る場所は、皆大日本帝国だ――そんな意味です。

しかしこの藩は、結果的に威勢のよいのは名前だけという悲惨な場所となるのです。

なんせ28万石を3万石にするだけも無茶苦茶な上に、この土地は実質的に7千石程度でした。

ハッキリ言います。
こんなの、藩として無理に決まっております。
遠回しに「ここに済む奴は全員餓死しろ」と告げたようなモノです。

明治政府は、御家再興を掲げてうまく釣り、邪魔で鬱陶しい会津藩士を餓死させようとしたのではないか?
そう突っ込みたくなるような処置でした。

とにかく生活は困窮を極め、衣食住に必要なもの、燃料になる物資すらない始末。
刀を農具に持ち替えようにも、痩せた土地を耕すことすら困難です。

山川が夢見た貿易なんて、まったく手を付けられません。

しかも政府は、会津藩士の団結を恐れ、分断統治を徹底、団結すらできないようにしました。

こんな調子ですから、困窮のあまり身を売る女性もいました。
しかし武家の女としての誇りが高かったのか。
そうした女性を抱いた男たちは「刀を抱くようだ」と愚痴ったとも言います。

山川は、自虐的に歌を詠みました。

みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ
【訳】東北地方の斗南がどんな土地かと人に聞かれたら、原始時代まんまの国だと答えればいいべさ

山川家がおからを買い占めただけで、藩士から追及されるほど、悲惨な生活が待っていたのです。

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この斗南生活で有名なのは、まだ幼い柴五郎の逸話です。
犬の肉を食べられず吐きだしたところ、父がこう叱りつけたというのです。

「ここは戦場なるぞ、会津の国辱(こくじょく)雪ぐまでは戦場なるぞ」

ただ、これは柴の創作も入っています。
実際は、初めこそ落ちていた犬の死骸を喜んで食べ、甘いと喜んでいたものの、飽きた後すらかみ続けて嫌になったという話だそうです。

まぁ、それにしても悲惨な話ですよね。
生類憐れみの令」以来、日本では薩摩のような例外を除けば、犬食はタブーであったはずです。

それすら平気になったほど、斗南の人々は飢えていたのでしょう。

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廃藩置県がやっと実施され、斗南藩の人々はやっとこの地獄から解放されました。

斗南に残る者。
会津に戻る者。
北海道へ渡る者。
東京に移住し、軍隊や警視庁に入る者。

彼らは西南戦争であの薩摩を倒せると張り切ったとも伝わります。

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命を落とした者も、中にはおりました。
明治9年(1876年)、前原一誠の起こした「萩の乱」に呼応し、士族反乱を起こした元会津藩士の一団がいたのです。

率いていたのは、元家老の永岡久茂でした。

永岡久茂/wikipediaより引用

 

「ちっど刀押し当てて聞いでみっか!」

いかがでしょう?
敗者なら当然の報いでしょうか?

確かに悲惨なのは会津藩だけでなく、奥羽越列藩同盟の中には北海道への開拓を余儀なくされた者も多々おります。
戦争に負けるとはそういうことなのでしょう。

しかし『西郷どん』は国民に強い影響を与える大河ドラマです。

・全部が史実だとは思わないけど、概ね正しく描かれているのだろう
・だってスペシャル番組では、考証の先生とスタッフが話し合って内容を決めていると言ってたしな

と、そんな風に考え、西郷どんが史実だと思いこんでいる方も多数いる可能性があります。

そこで西郷が
「倒幕し、民がメシを腹一杯食べられるようにする」
と語っていたなんて100%創作を前面に押し出していいのでしょうか。

もしも会津藩の山川浩が現代に甦ってドラマを見たら、こんな風に突っ込む気がします。

「倒幕した結果、会津藩士は腹一杯どころか飢えてばっかりだべした!
おからも食えねえ、犬の肉を薩摩っぽみでえに喰わねえどなんね。
しかも東京でも、思案橋の永岡さんみでえに士族反乱が起きてっぺや?
明治政府がよぐねえからだべ。
なのに、なじょしだらこっだ嘘を言えるんだがわがんね。
西南戦争で、ちっど刀押し当てて聞いでみっか!」

八重の桜』では、空虚なセリフに寒々しい諦念を抱くことはありませんでした。
敵味方それぞれの人物に意志があり、事情があり、思いがあり、強く心を揺さぶられたものです。

そんなドラマを期待するのは贅沢なんでしょうか。

追記

山川浩の句が酷い:山川はいちいち言うことが厳しい性格である、という点もあるでしょう。彼の口の悪さはフォローしようがないレベル。実弟に「切腹しろ」と言えるタイプなのでこれはもう言い過ぎというのはその通りです。

会津藩首脳部の判断ミス:前段でさんざん書きましたが、そもそもそこを提示したのは会津側ではなく政府側です。そして猪苗代という選択肢は、士族反乱その他諸々の諸条件から選ぶことができませんでした。

現地にも産業があったのだからそれをやればよかった:やろうにも、未経験の会津藩士は右も左もわからない状態。せめてフォローがあれば、と思いますがむしろ団結を恐れて邪魔が入る状況です。

似たような会津藩士放流系移住促進として余市の例があります。
その差を考えると、もうちょっとサポート体制ありようあったんじゃないのか、という気持ちが湧いて来ます……。

旗本御家人の困窮にせよ、そういう判断を選んだ者が悪いという「自己責任」論もあるでしょう。
しかし、近代国家として幕開けした明治政府が、政権交代の政策によって困窮しているのに「自己責任」と突き放すことは、果たして正しいことなのでしょうか。

文:小檜山青

【参考文献】
『会津えりすぐりの歴史―資料から読み解く真実の歴史』(→amazon
『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon
国史大辞典

 



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