果たして彼は将軍に相応しい器だったのか?
いかなる経緯でその地位に押し上げられたのか?
幕末フィクションには欠かせない徳川慶喜。
父が御三家、母が皇族という血筋から、一般的には育ちの良さが目につき、2021年大河ドラマ『青天を衝け』では”いい人”キャラとして描かれました。
しかしその評価、立場が変わればガラリと変貌。
幕臣や新選組、あるいは会津藩から見た場合、徳川慶喜こそが江戸幕府を潰した身勝手な人物――そんな評価になりがちです。
明治維新サイドから見るか、江戸幕府サイドから見るか。
これまでのフィクションでは「誰を主人公にするか?」によって慶喜の人物像も極端になりがちでしたが、現在、そのどちらでもないドラマが人気を博しています。
ドラマ10『大奥』です。
男女逆転版というSF設定でありながら、江戸時代の政治や庶民生活がギュッと凝縮されたような本作。
徳川慶喜は一体どんな評価なのか?
『大奥』原作から引用させていただくと、こうです。
「慶喜には心が無いのだ 国の民や家臣を思う心が無い者はどんなに聡くても将軍にはふさわしい器の者ではない!」
人間の善悪を示すのではなく「心が無い」とは言い得て妙かもしれません。
史実の徳川慶喜について、当人自伝の評価などを割り引くと「薄情」とか「幕府滅亡の張本人」などの意見が目立つのです。
では、実際はどんな人物だったのか?
天保8年(1837年)9月29日は慶喜が生まれた日。
本記事では、将軍になるまでの慶喜と、当時の社会状況とあわせて振り返ってみましょう。
父は御三家の斉昭 母は吉子女王
天保8年9月29日(1837年10月28日)、江戸小石川の水戸藩上屋敷で、徳川斉昭の嫡男となる七郎麿が生まれました。
この年は【大塩平八郎の乱】が起きた時代。
大塩平八郎は【寛政異学の禁】で禁止されていた陽明学の徒でもありました。
禁止された学問を身につけ、幕政に対し武力で叛意を翻す――時代の変動を象徴する出来事と言えるでしょう。
天保9年(1838年)4月、生後7か月で慶喜は江戸から水戸に移されました。
スパルタ教育を信条とする斉昭らしい選択。厳しい言い方をすれば、幼少期の厳しいしつけが必ずしも人間性を鍛えるわけでもない、この父子からはそんな教訓も学べると言えるかもしれません。
七郎麿は幼少期から特別でした。
なんせ生母は京都から斉昭に嫁いできた吉子女王です。
長男・徳川慶篤の「控え」として斉昭の手許に置かれ、我が子の中に流れる、皇室に近い女系の血が誇りとされたのでしょう。
同じことは慶喜本人にも当てはまり、幼いころから女中に向かいこう言ってのけました。
「私は有栖川宮の孫であるぞ」
徳川将軍家は、3代家光以来、京都から正室を迎えながらも、その影響を受けることを警戒していました。
実際、正室を母とする嫡出将軍は家光以降に現れておらず、京都の外戚が幕政に口を挟むことが避けられてきたのです。
しかし、最後の将軍である慶喜の代で、その警戒心に綻びが生じてしまうのでした。
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二面性を抱えた両親と親子の関係
徳川斉昭と吉子女王の夫妻は美談に彩られています。
斉昭の勤王への思いを知り、仁孝天皇が喜んだこと。
吉子が勧めようと、斉昭は側室を置かなかったこと。
こうしたことから夫婦仲睦まじいとされたりしますが、話を鵜呑みにはできません。
斉昭は「精力絶倫」と噂されるほど、女色を好み、実際37人もの子供がいました。
しかも女性を愛し、慈しむというよりも、力づくでものにして、支配力を満たすタイプと言いましょうか。
ことに及んだ後、こう豪語していたとも伝わります。
「わしほどの男に抱かれたのだ。女冥利につきるであろう」
フィクションであれば悪役の台詞そのものですが、現実に女中たちは恐れ慄いていて、斉昭が参加する梅見では未婚者を装ったとのこと。
既婚者だとわかると、気まぐれでものにしてしまうのですから、たまったものではありません。
この夫妻の関係性を示すエピソードとして“乗馬”に関するものが残されています。
馬にまたがる妻に、夫はこう言いました。
「女が馬に乗るときは、鞍に棒を立てたら落ちないだろう」
妻はこう返します。
「御前は前壺に穴を開けたらよろしおすなぁ」
妻は夫のことを知り、あしらう術を知っていたのでしょう。
斉昭は美貌の大奥女中・唐橋に性的暴行を加えた挙句、そっと囲いものにしていたというのですからどうしようもなく、こうした行状は後に斉昭父子の足を引っ張ることになります。
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そんな二面性のある夫妻のもとで生まれた七郎麿。
彼は幼少期から尋常ならざる教育が施されていたと伝わります。
藩校・弘道館にて、会沢正志斎から文武を学ぶ英明さに、周囲の期待は高まっていた……と同時に、こんなスパルタ教育伝説があるのです。
――寝相の悪さを矯正するため、枕の両側に剃刀を置いた――。
寝返りを打つと顔が切れるというわけで、単なる虐待であり、正気の沙汰とは思えません。寝静まると家臣がそっと外したとか。
幼い子供の精神を蝕んだ可能性の方が高いでしょう。
そんな慶喜に吉報が届いたのが弘化4年(1847年)8月のこと。
9年間過ごした水戸を離れ、江戸へ向かうようにとの沙汰がありました。幕府から一橋徳川家を相続させたいとの意向が伝えられたのですが。
ことのほか可愛がっている11歳の我が子が、一橋家の世嗣となることに斉昭は大喜びでした。
年末には元服し、家慶から偏諱を賜り、「昭致」から一橋家当主・慶喜へ。
家慶は一橋邸をしばしば訪れています。男子が育たず、唯一の例外である家定も病弱だったため、慶喜を次の将軍にしたいと考えていたとされます。
しかし、老中首座の阿部正弘に止められ、断念していました。
慶喜が準主役級の扱いであった大河ドラマ『青天を衝け』では、吉幾三さんが演じる家慶が、幼い慶喜に目をかけている描写がありました。
実はこうした関係には、なかなか複雑な事情がありました。
11代・家斉の栄光時代
江戸幕府はなぜ滅んでしまったのか?
この問いに対し、明治時代を迎えて、旧幕臣たちはこう嘆いています。
徳川斉昭と、慶喜の父子が幕府倒壊の根本的原因である――。
幕末を扱ったフィクションや書籍は、大抵は【黒船来航】前夜から始まりますが、斉昭・慶喜親子の登場と考えると、それよりずっと早い段階から始まっていたことになります。
徳川慶喜にせよ、維新志士の面々にせよ、新選組にせよ。彼らの青年期と幕末が重なるとなると、【黒船来航】からマイナス20年程度が範囲となる。
しかし、さらに長いスパンで考えることで浮かび上がってくることもあります。
2023年放映のドラマ10『大奥』は、大河ドラマですらできない試みに挑みました。
それは徳川3代から15代まで描くこと。
男女逆転というSF要素がありながら、将軍の個性は新たな研究も反映させ、幕末へ向かう長いスパンを見るフィクションとして、稀有の存在と言えます。
それを踏まえて幕末へ向かう歴史の流れを振り返ってみましょう。
第11代将軍・徳川家斉というと、現在ではやたらと子女が多かった「オットセイ将軍」というイメージが強いものです。
しかし、幕末に生きていた人々からすると、天下泰平、爛熟の世のシンボルそのものでした。
世界史に目を向けると、清の乾隆帝、フランスブルボン朝のルイ14世のような存在。
この二人は全盛期に君臨したとはいえ、政治力に関して言えばそこまで高いとも言えません。むしろ後に残る負の影響も大きいものでした。
【黒船来航】よりもずっと早い段階で起きていたことです。
12代・家慶と斉昭の因縁
家斉は、家慶が将軍となった後も大御所として君臨し、長い間政治を担ってきました。
そんな偉大なる父の子である家慶は、プライドが高く、打たれ弱い人物でした。多くの子女がいたものの大半が夭折してしまい、残された家定も病弱で子がいません。
そのためか、晩年の家慶は幼い子どもを可愛がる傾向が見られました。
徳川御三家の中でも身体壮健、頭脳明晰である慶喜に目をかけるのは当然のことといえます。出来の良い孫扱いですね。
ただし、そこには大きな問題もあります。父・斉昭との因縁です。
文政12年(1829年)、水戸藩主8代斉脩(なりのぶ)が子を残さず没すると、後継者争いが勃発。
財政難の藩を立て直すため、家斉の子を養子に迎えて継がせたらどうかという案が上がりました。
これに反発したのが水戸藩の会沢正志斎や藤田東湖たち。
「哀公(斉脩)には弟君(斉昭)がおられるではないか!」
と、抗争を経て斉昭が9代藩主となるわけで、激しやすく根にもつ性格の斉昭は、自らの藩主就任に反対した相手を徹底的に叩きのめします。
斉昭が藩主になった際の禍根が、幕末最大の惨事とされる【天狗党の乱】の根幹にある。
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そもそも御三家でありながら、尾張や紀伊より扱いが軽いように思える水戸徳川家。
明朝が滅亡すると、当時世子であった光圀が、亡命した明人の朱舜水らを庇護し、中華の後継者を自負するようになります。
複雑な人生ゆえ、どこか屈折した水戸光圀が生み出したのが、水戸学でした。
この水戸学は、斉昭の時代となると「後期」とつけられて「後期水戸学」と称されます。
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前述の通り、斉昭は藩主就任を妨害されたことがあります。
家斉の養子に奪われかけた過去に恨みでもあったのか。それともライバル心に火がついたのか。
斉昭は、欧米列強の外患に悩まされる幕府に喝を入れるべく、大立ち回りを演じました。
『青天を衝け』の初回でも描かれた追鳥狩という軍事演習。
外国船を断固打ち払うべしと唱える強硬な理論。
2020年代風にわかりやすくキャッチコピーをつけるとすれば、「メイク・ジャパン・グレート・アゲイン(強く美しい日本を取り戻す)」といったところでしょう。
国威発揚と禍々しいまでの雄々しさを振りかざす斉昭は、強いリーダー像とみなされた一面もあります。
七郎麿の幼少期は、いわば斉昭フルスロットル時代でした。
しかし、御三家がノコノコと幕政に口出しする状況に、家慶は憎悪すら抱いていました。
エリート気質で繊細、改革に挫折しどこか無気力であった家慶にとって、斉昭は目障りそのもの。
そんな家慶のもとへ、水戸藩家老・結城寅寿らから相談が持ちかけられます。
領内の寺を迫害し、仏像まで破壊して困惑している――。
明治政府の愚策として悪名高い【廃仏毀釈】は、実は斉昭が先行して行なっていたものだったのです。理由はイデオロギー先行で、無茶苦茶なものでした。
日本では伝統的に「儒・仏・神」が並行して信仰されています。
朱舜水らを受け入れて以来、儒教の本場を自負する水戸学の世界観では、儒教と神道をまとめて崇敬するようになります。
そして、こうなります。
「仏教、お前らは天竺(インド)由来のくせに、厚かましいんだ!」
水戸学のもつ過激なやりすぎ感と破壊衝動が、この頃には既に発現していて、ただでさえ斉昭の厚かましさに苛立っていた家慶は、いよいよ決意を固めます。
天保15年(1844年)――斉昭は幕府より、謹慎を命じられました。
水戸藩の藩政が勝手気まま過ぎる。
あまりに驕慢である。
幕政への口出しがやりすぎだ。
御三家は模範となるべきなのに、そういう気遣いがない。
この出来事を水戸藩では【甲辰の国難】と呼び恥辱として記憶し、裏で糸を引いていたとされる結城寅寿は、後に一子・種徳ともども、理不尽な死を迎えています。
そうした家慶と斉昭の因縁をふまえると、慶喜が可愛がられることは水戸藩に明るい予感すらもたらすものとも言えた。
幕末という時代は、危難において一致団結するどころか、分裂する日本人の姿が見えてきます。
幕府においては、斉昭派か、アンチ斉昭派かという、水戸藩内部抗争を拡大した図式が勃発。
それは家斉という巨星が堕ちた後、斉昭と家慶にまで遡ることのできる関係でした。
少年時代から狡猾であった慶喜
鍾愛の我が子が、一橋家の世継ぎとなる――斉昭はどれほど浮かれたことでしょう。
家慶から見込まれ、斉昭は褒めちぎる。しかし、この貴公子には別の側面があると、周囲の者が悟った逸話が残されています。
一橋家に入った慶喜が、打毬(日本式ポロ)で遊んでいたときのことです。
杖を使ってボールを集めるはずなのに、手で拾っている。周囲は困惑しながら見て見ぬふり。それを見咎めた相手が、ザルでまとめてボールを掬い取り、こう告げたとか。
「今後もそうやってコソコソと手でボールを拾うなら、こちらとしてはザルですくいます」
晩年に愛猫ハンの写真を撮影したことから、慶喜に親近感を持つ愛猫家もおられるようです。
しかし、幼少期の彼は猫をいじめて遊ぶ不穏な人物でした。少年時代は猫を木に縛り付け、手裏剣をぶつけて遊んでいたこともあるとか。
父の二面性が似たのか。スパルタ教育で誤魔化すことを学んだのか。
賢くて外面は良いため、すっかり騙される者も少なくない。
往年の少年漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第1部に登場するディオ・ブランドー少年を彷彿とさせる、二面性のある人物として育ってゆきます。
しかも当時の斉昭はますます意気盛んでした。
水野忠邦の失脚後は、政治に消極的な家慶ではなく、幕閣を治める阿部正弘に取り入ることこそが重要だと理解。
愛想よく阿部に取り入る斉昭は「提灯持ちかよ」と言われるほどでしたが、斉昭は斉昭で、阿部のことを「チョウチンナマズだな」と呼んでいたとか。
阿部は不思議な人物です。全方位懐柔型ともいえる。
斉昭に甘いようでいて、家慶が「いっそ将軍を慶喜に継がせよう」と言い出したら実は止めています。
斉昭をうまくあしらっていたのです。
将軍継嗣問題
嘉永6年(1853年)、不穏な時代を一変させる衝撃が、日本を襲います。
ペリー率いる艦隊が浦賀沖に姿を見せたのです。
この【黒船来航】の真っ只中、将軍・家慶は病没。その後に続く家定は病弱であり、世継ぎがいませんでした。
しかも【安政の大地震】が起き、斉昭のブレーキ役であった側近・藤田東湖が死亡すると、それまで斉昭をなだめてきた阿部正弘も急死。
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未曾有の国難の中、ブレーキの壊れたダンプカーのような斉昭が主導して、しょうもない政治闘争が発生します。
14代将軍の座をめぐる【将軍継嗣問題】です。
これは幕政と将軍の在り方を変えてしまうようなトラブルと言えました。
近世以降、君主制は為政者の器量ではなく、それを支えるシステムの構築が重視されました。
例えばイギリスとフランスを比較してみるとわかりやすいかもしれません。
イギリスの場合、君主として美徳と力量を備える人物は多くない。とりわけハノーヴァー朝は際立った暗君揃いでした。
フランスの場合、【フランス革命】の最中にルイ16世が斬首されています。
ルイ16世は性格が温厚で慈悲深く、理系知識もある優れた資質の持ち主にもかかわらず、革命政府は
「ルイ・カペー本人に罪はないが、国王という存在は民主主義の敵である」
という理屈で死刑としました。
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そんなイギリスとフランスは【ナポレオン戦争】で激突。
イギリスを率いるのは、神経を患い廃人になったジョージ3世と、アホなパリピ王太子として悪名高い後のジョージ4世。
フランスは、軍神の如き、皇帝ナポレオン。
結果はイギリスの勝利でした。
こうした経緯を経て、ヨーロッパ諸国は悟ります。
これからは近代にふさわしい国のシステムを確立すべし――。
王座に座るのがパリピであろうと人形であろうと、国を動かすことが重要だと考えられたのです。
実はヨーロッパだけの話でもなく、江戸時代後期ともなると、将軍はお飾りであり、権威でした。
主にやるべきことは先祖の供養と崇拝、儀礼。そんな時代なのに、一橋派はこう主張します。
「この国難においては、強いリーダーシップが必要なのであります! どうか一橋慶喜を次期将軍に、みなさまの応援が、必要です!」
これは二重の意味でおかしい主張でした。
まず血統的にいえば、紀州慶福(後の家茂)の方が断然ふさわしい。
かつて水戸藩は、血統を掲げて斉昭こそ藩主になるべきだと主張していました。そんな過去の言動を一変して、年長賢明を条件に割り込ませようとしたのです。
近代へ向かう視点から見ても時代錯誤でした。
幕政は将軍一人ではなく、幕閣で動かしてゆくもの。前述の通り、暗君を掲げていようがイギリスはフランスに勝利しています。
将軍継嗣問題とはつまり、本来問題にすらならないようなことを、徳川斉昭とその周辺が無理に担ぎ出して大騒ぎしたことから発生したと言えます。
一橋派は強引すぎた
将軍継嗣問題で対立した一橋派と南紀派という表現も、厳密に言えば正確ではありません。
一橋派の無茶苦茶な言動に反対した勢力が南紀派であり、主体的に誰かが扇動したものではない。
一方の一橋派は、無茶な理屈を掲げながらも、人心掌握には長けた逸材が揃っていました。
押しが強いパワフル斉昭。
聡明で先見性に長け、人徳もあった松平春嶽。
この二人が説得することで、なびいていく勢力も増えてゆくのです。
が、一橋派はやりすぎました。
堀田正睦らが苦労して結んだ【日米修好通商条約】を「弱腰だ!」と攻撃材料にしながら、朝廷にまで何やら工作を行う。
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見た目にもわかりやすい暴挙の一つが【押しかけ登城】でしょう。
大河ドラマでもあまりじっくり描かれませんが、これがなかなかマヌケな顛末でして。
井伊らを糾弾するため城までやってきた斉昭一派。昼時になると、当番目付が月番老中・内藤信親にこう伺いを立てます。
「あの、湯漬けくらい出したほうがよいですかね?」
「呼んでもないのに登城したんだから、弁当くらい持ってきてるだろ。昼飯なんていらん」
結果、空腹のせいもあり、斉昭らはすっかりトーンダウン。
斉昭がギャンギャン怒鳴り、井伊直弼が冷たく返すという屈辱的なやり取りとなりました。
支持者から「もう一橋派、終わっただろ……」と嘆かれる始末となったのです。
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こうした一橋派の無茶ぶりに怒りを抱いていたのは、一橋派からすれば暗愚な木偶の坊でしかない13代将軍・徳川家定でした。
阿部正弘の生前は幕政から遠ざけられていた家定は、実のところ井伊直弼と共同して政治を進めていくようになっていました。
その家定の意を背景にして、井伊直弼は大鉈を振います。
安政5年(1858年)――6月25日、大名が江戸城に登城させられ、紀州慶福が次期将軍であると発表。
7月5日、同時に押しかけ登城の罪を問われ、徳川斉昭は謹慎、松平春嶽と徳川慶勝は隠居謹慎となります。さらには斉昭の子である慶喜も登城を禁じられました。
そしてその翌6日、家定は急死。慶福改め徳川家茂が第14代将軍となります。
慶喜はこの処分にどこまで落胆していたのか。
「将軍になっても苦労ばかりでしょう。将軍に成って失敗するよりも、はなから将軍にならない方がずっとマシですよ」
父・斉昭には、そんな書状を送っています。
火中に栗を拾うことになることは目に見えていましたし、明治以降の楽隠居ぶりから察するに、本音と思える言葉。
慶喜は「父上のせいで最悪の謹慎に」と言わんばかりに、あてつけじみた謹慎生活を送るのです。
風呂に入らない。
月代を剃らない。
麻袴着用。
昼間でも雨戸を締め切って読書すらできない。
縁側にも出ない。
そして父に説教。
強引な攘夷だのなんだの幕政に口出しして何のつもりか、二度とするな!とぶちまけました。
さしもの斉昭も「もうしない」としょんぼりしてしまいました。
だがしかし幕末の熱血は止まらない
水戸藩士はそこまで達観できません。
むしろ慶喜のやりすぎ感漂う謹慎にヒートアップしたのでしょう。
安政7年(1860年)3月3日――雪が降りしきる中、【桜田門外の変】により井伊直弼を殺害します。
実行犯の中には薩摩藩士もいて、同藩国父(藩主の父)の島津久光は素早く処断しましたが、一方で斉昭はさすがに気力も尽きたのか、暴走する藩士が抑えられないと嘆くばかり。
そして同年の万延元年(1860年)8月15日、月見の宴にて厠へ立つと、そこで倒れて急死したのです。
享年61。心疾患とされますが、当時は彦根藩士による暗殺説すら流れました。
時代はますます不穏な方向へ。
【桜田門外の変】を受け、井伊直弼による【安政の大獄】がやりすぎだったのではないか?として、処分が解かれてゆくのですが幕府にとっては判断ミスと言えました。
テロは世を変える――こんな危険思想が蔓延してゆくのです。
とりわけ水戸学や陽明学に心酔する志士たちに衝撃を与えました。
前述の通り、大塩平八郎は陽明学を学んでいます。幕末の志士たちも、大勢がこの思想に染まっていて、大まかにまとめると次のような内容となります。
◆心即理
それまでの朱子学では「性即理」、性(仁・義・礼・知・信)と、情(感情)を分け、性こそ理であると定義。
行動する前にワンクッションおいて、仁・義・礼・知・信に照らし合わせるという教えでした。
これに対し陽明学の「心即理」とは、くだけた言い方をすればこうなる。
「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ! その時スデに行動は終わっているんだッ!(『ジョジョの奇妙な冒険』第5部より)
心に浮かんだことを実行に移す――尊王攘夷志士は、異人を見かけたら即座に惨殺し、それを自慢した。
最悪の形で実行に移してしまったと言えるわけです。
◆知行合一
知識と行動を一致させること。
知識で学んだことを行うのは一見良いことのようで、その知識がヘイトやレイシズムであったらどうなるか?
「あの異人どものせいで日本は悪くなった! もう殺すことが正義!」
そんな過激思想を実行に移したら、ただのヘイトクライムですが、実際のところ維新の志士たちはそうした凶行に奔りがちでした。
『水滸伝』の冒頭さながらに、魔星が飛び散ってしまったのが、このころの日本だったと言えましょう。
水戸学やら陽明学を掲げた幕末の志士は、とにかく危ない。
居酒屋や遊郭でどんちゃん騒ぎをして、憂国談義をする程度ならまだマシ。
リアルな暴力殺人にまで発展するため、青春熱血トークでは片付けられず、日本にとっての実害も出ています。
外国人の殺傷賠償金は明治時代にまで続き、その後は国内の政治家暗殺も続発しました。
国難に直結する間違った熱血ぶりだったのです。
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幕末のヤレヤレ系の主人公・慶喜
そんな幕末熱血志士たちと比較すると、徳川慶喜はキャラ立ちしている人物と言えるかもしれません。
2000年代から流行したライトノベルやアニメの主人公一定義として「ヤレヤレ系」があります。
常に斜に構えていて、どこか消極的、熱くならず、周囲が盛り上がっていてもクール。うんざりした様子でヤレヤレと呆れることが特徴です。
日本史上において「ヤレヤレ系」を探したら、徳川慶喜こそ最有力候補でしょう。
父・斉昭は「オラオラ系」でした。
異人対策として「船に乗り込んで皆殺しにすれば解決でござる!」と阿部正弘に提案するような性格です。その斉昭のせいで、慶喜はこうささやかれていました。
「聡明だし、みどころもあるけど、あの人はオンブオバケだからなぁ(背中に妖怪である父がついているということ)」
青年期になってからはオラオラ系の尻拭いばかりさせられた慶喜。
一歩引いて達観して、ヤレヤレとため息ばかりついていても不思議はないのかもしれません。
実際、慶喜の言動は、逃げてばかりのものが非常に目立つのです。
「天下を取るなんて、気苦労ばかりで嫌。骨が折れるから嫌というわけでもないけれど、天下をとって失敗するより、天下なんて取らない方がよほどいいよね」
「一橋家ですら荷が重いのに、私が天下なんか取ったら滅亡するよ……」
「私は不肖の息子だよ。大任になんて応えられないし。ましてやこんな屋台骨がガタガタの徳川家を継いだところで、天下回復なんてありえないでしょ」
やるからには完璧に。それができないならはなからやらない。
そうした完璧主義のあらわれか。ただ単に、本当にやる気がなかったのか。
江戸幕府最後の将軍が、もっと熱い性格であれば、その後の歴史はどうなっていたか。
斜に構えていて「やれやれだぜ」が口癖でありながら、熱い心を秘めていた――そんな『ジョジョの奇妙な冒険』第3部および第6部主人公である、空条承太郎や空条徐倫のような性格ならば、別の道もあったかもしれません。
幕末を見届けた勝海舟は、14代将軍・徳川家茂の話となると、目元に涙を滲ませました。
明治になってから油絵で描かれた肖像画を見ると、感慨深げに「よく描けている」と……。
もっとよい時代に生まれていたら。もっと長生きできていたら。きっと名君になれただろうに……そう語る目から涙が落ちたのです。
勝は、幕臣であった福沢諭吉から腰抜けで恥知らずであると『痩我慢の説』で罵倒されました。福沢は、戦いもせず幕府がおめおめと降伏した責任者として、勝を許せなかったのです。
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それでも勝は反論しませんでした。その気持ちはわかる気がします。
あの将軍のもとでは、どうしようもあるめぇよ。しかしよ、それを言ったところで仕方ねぇよ。
そんな達観に至ってもやむを得ない状況だったと思うのです。
慶喜は明治になってもヤレヤレ系でした。
慶喜の命を救うために奔走した勝のもとへ向かったのは、勝が衰え、歩けなくなってからのこと。
主君に足を運ばせるとはけしからんという批判が勝に及びますが、そもそも勝が出歩けなくなるまで、慶喜は顔を見ようともしなかったのです。
ここでもう一度、2023年秋放送のドラマ10男女逆転SF版『大奥』での、家定による慶喜評を思い出しましょう。
「慶喜には心が無いのだ 国の民や家臣を思う心が無い者はどんなに聡くても将軍にはふさわしい器の者ではない!」
慶喜の心の無さは、残念ながら、彼が政治の表舞台に立つことで存分に発揮されてしまいます。
オラオラ系全盛期の幕末政局において、ヤレヤレ系主人公が将軍に立つとどうなってしまうのか?
逆に、慶喜はどう振る舞うのが正解だったのか?
そこに思いを馳せてみることもまた歴史の醍醐味かもしれません。
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【参考文献】
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon)
久住真也『幕末の将軍』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
他


















