徳川慶喜(一橋慶喜)は天保8年(1837年)9月29日、江戸の水戸藩邸にて生誕しました。
幼名は七郎麿。
父は徳川斉昭(1800-1860年)で、母の吉子女王(よしこじょおう)は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の娘です
いかにも武家バリバリという印象かもしれませんが、実は皇族の血も入っていたんですね。
幕末における水戸藩は、徳川御三家ながら、少々変わった立ち位置にあります。
同藩は国境に長い海岸線を持っていて、薩摩と同様、早い時期から黒船の来航を認知していました。外国船は、ペリー来航の前に何度も来ていたのです。
そんな水戸では、過激な「尊皇攘夷」運動が展開されます。
筆頭が藤田東湖(1806-1855年)であり、藤田の影響を受けたのが、慶喜の父・徳川斉昭でした。
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阿部正弘の口添えで11才にして一橋家を継ぐ
慶喜は、父・斉昭の方針に従い、江戸ではなく水戸で厳しく教育されました。
水戸と言えば藩校・弘道館が有名ですが、慶喜も同校へ通い、当時から優れた人物だとして知られていたのです。
それはときに「家康の再来」とも称されるものでもありました。
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1847年、阿部正弘の口添えによって慶喜は11才で一橋家を相続。
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一橋家とは、将軍候補を輩出する御三卿(ごさんきょう)の一つであり、他には田安家と清水家がありました。
※徳川吉宗から一橋家と田安家、徳川家重から清水家が生まれます
同家を継いだことから慶喜の運命は、やがて時代のうねりに翻弄され始めるのです。
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将軍継嗣問題で【一橋派vs南紀派】
そして1853年――。
浦賀にペリー提督の率いる黒船がやってきました。
幕府や日本全体を揺るがすこの混乱の最中に12代将軍・徳川家慶が亡くなってしまい、跡を継いだのが病弱だった13代将軍・徳川家定。
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島津家・篤姫が嫁ぎ、同時に急務となったのが次の14代将軍の候補者選定です。
跡継ぎの期待できない家定に代わり、誰を次の将軍を誰にするか?
いわゆる「将軍継嗣問題」と呼ばれる問題で、候補に推されたのが
・一橋慶喜
・徳川慶福(紀州藩主・過去には徳川吉宗を輩出)
の2名でした。
それぞれの支持者は
等となっており、最終的には南紀派が勝利します。
徳川家定後の14代将軍は、徳川慶福になりました。このとき徳川家茂(いえもち)に改名しております。
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火消しの親分・新門辰五郎とも昵懇に
なぜ慶喜の一橋派は負けたのか?
実はこの時期、阿部正弘と島津斉彬が相次いで亡くなって勢力を失い、大老となった井伊直弼に押し切られてしまったのです。
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この政治争いから、直後に続けて起きた政治的弾圧事件が【安政の大獄】。
同騒動では、西郷隆盛も粛清の波に呑まれ、元清水寺の住職・月照と共に鹿児島の海(錦江湾)へ入水しました。
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そして奇跡的に一人だけ生き還ります。
西郷は、薩摩藩から腫れ物のような扱いを受け、奄美大島への島流しを余儀なくされるのでした。
一方、慶喜は1858年、日米修好通商条約に調印した井伊直弼を問い詰めて謹慎処分となるのですが、
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翌1859年の【桜田門外の変】で直弼が殺されると、1860年には謹慎も解除されました。
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