パリ万博

パリ万博へ向かった幕府の使節団/wikipediaより引用

幕末・維新

パリ万博で渋沢栄一が目にした3つの衝撃! 1867年の第2回パリ万国博覧会

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現地で知った薩摩藩の別枠参加

公使団一行は、遠路はるばるフランスへ。

現代であれば【横浜→パリ間】は飛行機で半日程度の距離です。

しかし、当時は長い船旅を強いられ、実に56日間を船内で過ごすこととなりました。

船員ですら船酔いに苦しむ過酷な旅でしたが、栄一は船内で味わった洋食の記録を克明に残すなど、新鮮な環境に心を躍らせています。

航西日記

栄一が渡欧の様子を記した『航西日記』※杉浦靄人との共著/国立国会図書館蔵

この辺り、文久遣欧使節の食事で苦しんだ福沢諭吉と違い、渋沢栄一のほうがやはり柔軟性が高そうですね。

文久遣欧使節団
あの福沢も苦労した文久遣欧使節団の洋食事情 マズい!醤油をもう一杯!

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一行は大きなトラブルもなく仏国・マルセイユへ。

到着当初は関係機関へのあいさつ回りや施設の見学会などでせわしなく過ごしました。

西洋文明に対する栄一の驚きようは大変なものでした。

例えば、当時の潜水服を見て

「水底に人を長時間滞在させる術がある……」

などと書き残しています。

ところが、です。彼らには懸念すべき事態もありました。

万博の会場式において、薩摩藩が「琉球国王の使い」と称し、国旗・特産品を並べるばかりか、独自に勲章まで作成していたのです。

言うまでもなく、当時の薩摩藩は徳川に従う立場。早い話、幕府を舐め腐っていました。

当然ながら彼らは怒り心頭ですが、そもそも「勲章」というものが何なのか、ハッキリとわかっていないような立場。

それは栄一も同様で、「功績を挙げた者の胸元に証をつけて表彰する」という説明を聞いてから、ようやく理解したといいます。

彼らは薩摩との差を否応なく痛感させられ、沈痛な面持ちのままパリへ向かうことを余儀なくされたのです。

 

スイス→オランダ→ベルギー→イタリア……

パリに到着した一行を待っていたのは慌ただしい日々でした。

宮廷行事であるオペラへの出席。

ホテルや借家の手配など。

勝手の知らない異国の地で、栄一は金銭的な役割を担い、借家の手配などに尽力しました。

栄一は、徳川昭武の邸宅を用意する際、他の随行員に反対されながらも家賃の値引き交渉に成功。

長期滞在を見据えた家具の準備も手配します。

栄一は、良くも悪くも西洋文明に驚き、それらを「進歩的」と受け入れたようです。

ところが、血気盛んな水戸藩士らは、郷に入っても郷に従わず、栄一と議論になることもしばしばでした。

博覧会への参加については思わぬ好評も得ます。

西洋の品々に圧倒されながらも、日本文化を象徴した出し物が人気を博しました。

後世で「ジャポニズム」と呼ばれる日本的文化の流行に貢献したとも言われ、彼らが第一等の表彰を受けていることからも、現地に受け入れられたとみていいでしょう。

ただし、これは「日本人がリスペクトされた」というわけではなく、「未開の地の野蛮人にしては良い文化を持ってるじゃん」という程度の認識であったのも、また事実。

万博では、欧米の列強諸国がアジア植民地から連れてきた「奴隷」が見世物になっていたこともありました。

パリ万博の俯瞰図/wikipediaより引用

こうして万博の主要行事が済むと、昭武は幕府が条約を結んだ西洋各国を周遊する予定になっていました。

ところが、です。幕府から旅に関する具体的な指示が一向に届きません。

フランスからの資金援助も受けられず、一行は金銭的に困窮。

それでも、向山黄村(むこうやま こうそん)全権大使は、独断での滞在続行を決意し、予定通り各国を訪問します。

スイス

オランダ

ベルギー

イタリア

マルタ

イギリス

と目まぐるしく動き、少なくとも表面的には各国で歓迎を受け、栄一も様々な知識を吸収していきました。

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