禁門の変(蛤御門の変)

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

幕末・維新

禁門の変(蛤御門の変)が起きたのは孝明天皇が長州藩の排除を望んだから

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靖国問題

無事に朝敵認定を解かれて、長州藩士は維新を成し遂げてめでたし――。

と言いたいところですが、「禁門の変」はいろいろな問題点を含んでおり、その残響音は長く続くことになります。

明治維新のあと、戊辰戦争やそれ以前に維新のために尽くした戦死者の慰霊を行いましょう、ということになりました。

戦死者を慰霊するために神社にお祭りするということは、日本古来の伝統ということになっています。

それは半分正解で、半分不正解といいますか。

そういう慣習がなかったわけではありませんが、源流となる慣習は長州藩にあります。

元治元年(1864年)、藩校明倫館にて、大規模な「楠公祭」が行われました。

藩をあげて楠木正成の慰霊を行い、このとき吉田松陰や攘夷戦争で命を落とした藩士の霊も祭ったのです。

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藩のために命を落とせば、楠公のように魂を祭られる。

それが靖国神社への源流となりました。

こうして国と天皇のために命を落とした人を慰霊しましょう、となったとき問題が起こります。

「禁門の変」関係者では、久坂玄瑞らが祭られ、御所を守った会津藩士らが外されていたのです。

「なじょして? 天皇陛下のために御所を守ったんだべ? 御所を攻撃した連中らが祭られてんのに、おかしいべした!」

こうした遺族の抗議を受けて、御所守備側も祭られました。

が、久坂玄瑞らは外されませんでした。一度祭ったものは外せないのかもしれません。

定期的に「西郷隆盛白虎隊士も合祀すべきでは?」と議論になる靖国神社。

実際には、久坂玄瑞らが祭られた時点で、ルール破りの例外措置があったわけです。

◆亀井静香氏「西郷隆盛や白虎隊など賊軍を靖国に合祀せよ」(→link

 

「朝敵」の隠し球

慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い後。

徳川慶喜と共に、松平容保は大坂城から急遽立ち去ることになりました。

小姓頭である浅羽忠之助は、容保が忘れたある書状に気づき、あわててそれを持ち出すと主君を追いかけてゆきます。

浅羽が届けた書状を、容保は竹筒の中に入れて、それからは常に身につけ、持ち歩くようになりました。

明治26年(1893年)に59才で亡くなるまで、その習慣は続いたのです。

そして……。

時は流れて、明治31年(1898年)。

かつて会津藩の家老であった山川浩は、肺結核が悪化し、死の床にありました。

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「健次郎、あどのごどは、にしに託した……松平家のこどを頼む。それと、なんとしても殿の汚名を……雪がねばなんねえ……あれを必ず世に出すんだ、頼んだぞ……」

「あんつぁま、あどのごとは任してくんつぇ」

浩は、弟の健次郎に、会津藩の名誉回復を託しつつ、息を引き取りました。

享年54。

山川健次郎は兄の跡を継ぎ、主君・松平容大(かたはる)の世話をする家政顧問となりました。

そこで山川が直面したのが困窮です。

子爵の家とは名ばかりで、みすぼらしい暮らしぶり。援助しようにも、山川にだって金はありません。

仮に金が入っても、みな会津復興のために使ってしまいました。戊辰戦争以降、金銭的に余裕があったことなど一度もありません。

山川家がいよいよ困った時に頼る手段はカンパです。

しかし、朝敵の家を庇う人などおらず、どうにもうまくいきません。

「なじょしたらよかんべ……」

そう悩んでいた山川の脳裏に、打開策がひらめきます。

山川は松平邸に、長州出身の陸軍中将・三浦梧楼を招きました。

三浦梧楼/Wikipediaより引用

三浦は長州藩出身ですが、藩閥政治には批判的。

かねてより、山川兄弟とは気が合う人物です。

「昔はいろいろなごどがありました。兄の浩は、会津が京都で何をしていだが、まどめておりやして」

「あの頃は、お互え、えろいろあったね。わしは、会津の君臣が一矢乱れず行動いちょったことに、感銘を受けちょったもんじゃ」

「んだなし。実は、先ほど申した本には、容保公が先帝から賜った宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)を載せようと思っております」

「まさか、そねえなことが!」

三浦はそう言い、絶句しました。

「信じていただけねえのでしたら、ご覧になっていただきましょう」

山川は主家から、宸翰と御製を借りてきました。

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それこそ、容保が肌身離さず身につけてきた、竹筒の中身であったのです。

【宸翰】

堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪

下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段

仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也

文久三年十月九日

堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり

【意訳】朝廷で、暴論を展開し、不正な処置を行い増長する者がおり、朕は胸を痛め、耐えがたいほどであった。密かに命をくだしたところ、速やかに処置して、心痛のもとを追い払ってくれた。朕の思いを実行してくれて感謝している。そなたの忠誠には感激した。この御製を感謝の気持ちに贈るものである
文久3年十月九日

【御製】

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる

・やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ

・武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

【意訳】この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌

・公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう

・武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう

 

なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取れたのか

三浦は、長年の疑問が氷解しました。

『なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取っていたか』

その源がこの【宸翰】であり【御製】であると、理解したのです。

「山川さん、こりゃ……世におったさんようお願いできんか。これが出れば、大変なことになる! 会津の殿にゃあ、まことに気の毒なことをした。どうか、このとおりじゃ!」

「ほだごど言われましても。ところで、松平家の援助を政府に再三願っでおるのですが、どうにも芳しくねえのでして。朝敵に渡す金なぞねえのは、わがるのですが、どうにかならんもんでしょうか」

「松平家が大変なこたぁようわかった。わしから上に、よう伝えちょくる!」

「ありがてえごとです」

三浦はこのことを、土佐藩出身の宮内大臣・田中光顕、政府中枢に相談しました。

そして大変なことになりました。

「そねえなんを、世に出したらならん!」

かくして要求は通り、松平家のために政府から3万円が下賜されることになったのでした。

しかし山川の心境は複雑だったことでしょう。

山川健次郎/Wikipediaより引用

病床にあった松平容保は、この宸翰と御製を山川浩に見せ、必ずや世に出して欲しいと訴えていたからです。

山川兄弟は、その容保の願いを叶えるため、活動してきました。

しかし、背に腹は代えられぬ。

いつかきっと、この宸翰と御製は世に出ることでしょう。その日まで、耐え抜くことにしたのです。

 

長州を憎み会津の忠義を信じていた

ではなぜ、政府は山川の要求を呑んだのでしょうか。

そこには

孝明天皇が長州藩を憎み、会津藩の忠義を信じていた】

と書いてあるからです。

それまで散々、天皇のために尽くしたのは長州藩であり、会津藩こそ天皇に楯突いた朝敵であると標榜してきた以上、それをひっくり返されるのは困ることでした。

しかし、明治37年(1904年)元会津藩士・北原雅長(神保修理の弟)が『七年史』を刊行。

その中で宸翰と御製の内容を発表します。

北原は「不敬罪」(天皇を侮辱した罪)で拘留されてしまいました。

北原雅長/Wikipediaより引用

しかし明治39年(1906年)。

『孝明天皇紀』が出版され、ここでも宸翰が明るみに出ます。

「こうなったら、もうよかんべ」

山川も、もはや隠し通す意味がないとして、兄の著作に大幅加筆した上で明治44年(1911年)、『京都守護職始末』を世に送り出したのでした。

「八月十八日の政変」と、それと連動した「禁門の変」については、孝明天皇が何を考えていたのかが判明しないと、わかりにくくなります。

大抵のフィクションではその辺りがボカされてしまうため、

「どちらがより天皇に近いか、どっちもどっち」

「要するに勢力争いでしょ」

というような結論にもなりがちです。

しかし、実はがっちりと背後に孝明天皇の意志があった――それを把握していたほうが、随分わかりやすくなるのではないでしょうか。

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文:小檜山青

【参考文献】
『吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』(→amazon
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