斗南藩

松平容大(左)と松平容保/wikipediaより引用

幕末・維新

斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑

幕末を描いたフィクションは難しいものがあります。

明治維新に至るまで敵味方が入れ替わり、どの立場から描こうにも、簡単な勧善懲悪では収まりきらない。

ゆえにバイアスがかかりやすくはなるのは仕方ないですが、それでも2018年『西郷どん』についてはあまりに杜撰な表現が続きました。

特に、主役の西郷隆盛が繰り返す、

倒幕し、民がメシを腹一杯食べられるようにする」

の危険性ときたら、さすがにどうなのよ、と首をひねらざるを得ないレベル。

倒幕という歴史的な変革は、本来、腹一杯食べられていた人を餓死にまで追い込んだ事件でもあるからです。

ただし、こんな反論もあるかと存じます。

「権力の移り変わりに従って既得権益を失う人がいるのは当然でしょ。同時に西郷が【メシを腹一杯】という理想を掲げるのも自然なことでしょ」

仰る通りです。

私も別に、権力闘争の末に佐幕派が追いやられ、薩長土肥がそのポジションに来た――と説明されればその通りだと思います。

願わくば、勝者と敗者には常にそれぞれの正義があり、両者に心情を寄せられるようなドラマになって欲しい。

そうであれば、西郷の生き様に感涙できたことでしょう。

しかし、あの大河ドラマでは最後までそうはなりませんでした。

とにかく美辞麗句に包まれ、懐の大きな西郷。

自分勝手で権力にしがみつく佐幕派を退治し、そして民のことを思って西南戦争を迎えた、と。

『青天を衝け』に至っては、渋沢栄一も幕臣であったはずなのに、箱館戦争における土方歳三の死を盛り上げるだけで、他の幕臣・佐幕派の悲劇についてはほとんど触れられず。

さすがに笑えません。

真田丸でも直虎でも、敵味方関係なく、それぞれの歴史の暗部を浮かび上がらせたからこそ胸を打つものがありました。

それは舞台が戦国から幕末に移っても、変わらぬ真理ではありませんか?

敵味方それぞれに戦う理由があり、両者の葛藤が描かれるからこそ、涙を誘われる。

というわけで本稿では、幕末において薩長が敵視し、そして特に悲惨な処置を受けた会津藩に目を向けてみたいと思います。

彼らが命じられた領地替えの【斗南藩】(となみはん)。

そこには地獄のような生活が待っておりました。

◆旧幕臣が俸禄を失い餓死者多数

◆幕政時代の商人は、得意客を失い潰れていった

◆戦地になった東日本では、東西両軍が食料を徴発、家屋を焼いたため、現地住民が飢餓や困窮に苦しんだ

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ざっと以上のようなことが起きていたのです。

詳しく見て参りましょう。

 

「西洋に負けぬ国にする!」じゃダメ?

西郷の「民を腹一杯にする」という表現がダメだ。

というと「じゃあ、何ならいいのよ?」というツッコミがきます。

あくまで一例ですが、

「西洋に負けぬ国にする!」

とでも言わせておけばムリはなかったですし、ご理解いただけるのではないでしょうか。

戊辰戦争とは、その理想の中で対立する佐幕派を討ち取った――という権力闘争であり、通常の幕末維新ドラマの見せ所にもなるところです。

そもそも西郷は、根っからの武士であり、戦闘的な一面も強くあります。

だからこそ若手藩士たちも彼を慕い、西南戦争で担ぎ上げたワケです。

今とは価値観がまるで違うんですから「戦はしない!」なんて言ったら、誰もついてきません。

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確かに島津斉彬に向けて農民のことを思う書状も提出していたりしましたが、それよりも当時の武士の規範である「主君のために」生きていた。

斉彬との関係を見れば、その姿は不自然ではないでしょう。

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だからこそ「民のために」というのはドラマだけの美辞麗句であって、最初からムリがありすぎるのです。

とまぁ、今更そんなことを言っても仕方ありません。

本題へ入ります。

朝廷には大政奉還が受理されながら、東日本を中心に争いの繰り広げられた武力倒幕。

そんな中でも屈指の被害者である会津藩は、いかにして「斗南藩」へ移封されたのか。

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そもそも天皇の信任篤かったのは会津

そもそも会津藩は

孝明天皇の信任が最も篤かった】

ところです。

『西郷どん』では盛んに、「アホでわがままな徳川慶喜のせいで、長州藩がいじめられる」としておりましたが、長州藩を潰せと強硬に言い張ったのは、孝明天皇です。

それは幕府も驚くほど強い要望でした。

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しかし【薩長同盟】があったり、孝明天皇が崩御したりで、戊辰戦争が勃発し、結果、会津藩は追い込まれていきます。

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会津戦争では、物資も不足し、被害者も多数。

西軍が掲げた【錦旗】を見れば、もはや「天皇のために戦う」という彼らの言い分は通りませんでした。

涙を飲み、降伏するほかなかったのです。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用

しかし会津藩の受難は敗戦だけでは終わりません。

明治政府からさらに追い詰められ、難しい究極の選択を突きつけられました。

 

会津藩 厳しい御家再興への道

会津戦争から1年2ヶ月後。

会津藩士に嬉しい知らせが届きます。

松平容保(かたもり)の子であり、生後間もない松平容大(かたはる)を藩主として、奥羽に3万石で会津藩の再興を許す――。

明治2年(1869年)11月3日、そんなお達しが下されたのです。

松平容大/wikipediaより引用

滅びた会津藩の再興となれば、うれし泣き必須。

しかしその背景には、会津藩への思いやりだけではない裏事情がありました。

敗北後の会津藩の領地には、駐留する西軍兵士がおりました。

彼らの態度は傲慢そのもの。これに怒った幽閉中の会津藩士が脱走し、駐留西軍兵士を襲撃する事件が多発していたのです。

これをどう対処するか?

アイツら、自分の殿様にしか従わないしな――。

ということで元の殿様に登場していただき、一家揃って会津から追い出そうとしたんですね。

しかし、減封の幅が28万石から3万石ですから、どう見たって無理があります。

餓死者も避けられない。

それでも御家再興は喜ばしい。

揺れる彼らに提案された候補地は、会津からはるか北にある【三戸郡・北郡・二戸郡】(現在の青森県)でした。

「なじょしてそっだ北になるだ! 会津から離れたら、殿様の墓守りもできねえべした」

会津藩士の町野主水らは、この決定に激怒しました。

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