幕末悲劇のヒーローにして、現代女性の人気No.1志士と言えば?
やはり土方歳三でしょう。
彼の所属していた「新選組」が、果たしてどれだけ幕末の歴史を動かしたか――。
そう問われたら、長州藩の「松下村塾」や、薩摩藩の「精忠組」より、はるかに役割は小さいと言えます。
所詮は負け組、所詮は捨て石、所詮は鉄砲玉。
結果だけ見ればそうなってしまいます。しかし……。
だからといって、新選組を、土方歳三を、時代の徒花的集団とは言いたくない。そんな熱量があるのも事実です。
新選組は、人気だけで見れば、間違いなく幕末トップクラスであります。
理由はわかる。多摩で薬の行商をしていたお兄ちゃんが、鬼の副長と呼ばれるほど冷徹な戦士と化し、最期は幕臣として戦い抜いて、そして散ったのです。
ドラマチックと言わずして何といいましょう。
そしてあの写真です。
ただ美男子というだけではない佇まい。
たった一枚なれど、土方歳三という名前を燦然と輝かせたのも、あの洋装姿が人の心を奪ってやまないからではないでしょうか。

土方歳三/wikipediaより引用
リラックスしているようで、馴染んでいるようで、やや緊張気味に握った拳。
緊張感と、洗練された雰囲気が混ざり合い、彼にしか出せない魅力にあふれています。
そんな土方歳三は明治2年(1869年)5月11日が命日。
本稿で、多摩から五稜郭までの生涯を振り返ってみましょう。
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多摩のバラガキ・土方歳三
土方歳三は天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)にて生誕。
生家は「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、「お大尽」と呼ばれる裕福な家でした。
父は土方隼人義醇で、母は恵津。10人きょうだいの末子にあたります。
6人きょうだいとされることもありますが、夭折したきょうだいが4人いたため、そのような数え方になっています。
父は、土方が誕生する3ヶ月前に結核で死去しております。母も、6才の時に結核で亡くなりました。
長兄の為次郎は失明しており、土方は、跡取りだった次兄・喜六と、その妻・なかによって育てられます。
幼少期に父母を失った少年というと、薄幸なイメージを抱くかもしれません。
が、土方は元気いっぱいに育ち、付いたアダ名が「バラガキ」。触ると傷がつく荊のように乱暴なガキという意味です。幼い頃から大胆不敵で、度胸あふれる少年でした。
多摩で暮らしていた頃の土方は、風呂上がりには褌一丁のまま、太い大黒柱相手に相撲の張り手をしていたとか。気分が乗ると、一時間でも続けていたなんてことも……。
彼なりの鍛錬でしょう。
武道への憧れがあったようです。
同時に頭も切れました。近所で葬式があった際、弔問客の履物を間違えずに出した、という話が伝わっています。
武道ばかりではなく、手習いはそれなりにしっかりと学びました。
のちに俳諧を嗜んだ彼の素養は、このころから芽が出ていたのかもしれません。
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イケメンのアパレル店員から、行商へ
お大尽といっても、兄弟が多い末っ子ならば働かねばならないのが当時の社会です。
11才の時、上野の「いとう呉服店」へ奉公。
しかし、些細なことで番頭と喧嘩になり、40キロメートルもある道をテクテクと歩いて、家に戻ってしまいました。
家の者がいくら説得しても、店には戻らなかったのだそうで、強情さがうかがえます。
17才の時には大伝馬町に奉公しました。
イケメンでモテモテだった土方は、今度は、職場で女性がらみのトラブルを起こしてクビになった……とは地元で伝わる話です。
こうした奉公経験のためか、土方は鋏や物差しを使うのがとても上手だったそうです。
家でフラフラしているわけにもいかない土方は、家伝の秘薬「石田散薬」の行商販売を開始することにしました。
この「石田散薬」は、昭和23年(1948年)の薬事法改正まで250年間にわたり販売されていたそうで。販売中止から20年ほどは、服用する人もいたとか。
販売だけではなく、土方は原材料刈り取り指導もしました。
リーダーシップに富み、彼が作業をすると早く終わると評判だったそうです。
江戸が黒船来航で揺れている中。青年期の土方は草を刈り、薬を売り歩き、俳諧を楽しむ。
頭は切れるけれども、平凡な青年として生きていました。
実践剣術・天然理心流
安政6年(1859年)、そんな土方に転機が訪れます。
25才にして、天然理心流に入門したのです。
年齢的には遅い入門。この修行を通して、盟友である近藤勇や沖田総司らとも出会いました。
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入門は遅いながら、以前から佐藤彦五郎の道場に出入りするなどして、剣術そのものは17才くらいから馴染んでいたようです。
上達も早く、資質もありました。
特に実践的な戦闘となると滅法強い。往来の気の強さ、判断力が加味されて、無類の強さとなるわけです。
「ふーん、それでトシさんは強くなるんだね」
そう軽く流してしまいそうになりますが、ここで疑問が湧いてきませんか。
なぜ天然理心流が、動乱の幕末でもブッチギリで強かったのか?
天然理心流は、寛政年間(1789年〜1801年)頃に創設された比較的新しい流派です。日野・八王子地域の千人同心を中心に広まりました。
八王子千人同心の任務は治安維持、いわば特殊部隊です。
凶悪な犯人を捕縛する人たちの間に広まったのですから、実践的な捕縛・殺人術であるのは当然。
スポーツ的に発展していった流派とは違い、相手を殺す技も多数含まれていました。
要は、本気の殺人剣術だったから強さが際立っていたのです。
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関東では悪党が暴れ回っていた
さて、そんな実践的な剣術がなぜ関東の農民にまで広まっていたか?と言いますと、時代背景的なものがあります。
太平の世とされた江戸時代も中盤以降は治安が急激に悪化。
土方ら幕末に活躍する者が生まれた天保年間あたりは、秩序の崩壊が始まっていました。
特に酷かったのが、関東地方です。
「悪党」と呼ばれる、江戸時代版モヒカン軍団のような連中がうろつくようになっていたのです。
一揆の参加者が暴徒と化した者たちのことでして。
江戸時代、一揆参加者には暗黙のルールがありました。
・野良着等、地味な農民らしい普段着を着ること
・武器の携帯は禁止
・暴力行為は禁止
「悪党」は、こうしたルールを破っていました。
・服装はド派手
・武器を携帯している
・暴力行為上等! ヒャッハー!
手に負えない連中なわけです。
早い話が、リアル『北斗の拳』状態であり、関東の治安悪化は幕末の「天狗党の乱」、「世直し一揆」で極まります。
話を戻しまして、そんな時代ですから、豪農たちお公権力に頼っていては自衛できないと考えます。
そこで彼らは、まだ10代の跡取りたちを天然理心流に入門させました。こうして関東には、リアル殺人剣をマスターする若者たちが溢れることになるのです。
そんな若者の一人に、日野宿の名主・佐藤彦五郎がいました。
彼はある日、とんでもない事件に遭遇します。
嘉永2年(1849年)、「染っ火事」と呼ばれた火災の最中に、祖母が賊に斬殺されてしまったのです。
このマッドな世界において、もはや強くなければ生き残れない—そう痛感した佐藤は、天然理心流道場の門を叩きました。さらには自宅を改造し、天然理心流の道場とします。
土方は、この道場に出入りしておりました。
幕末関東というリアル『北斗の拳』を生き延びるため、腕を磨いた新選組幹部たち。彼らからすれば、スポーツのような道場剣術を学んだ武士など、弱くて当然でした。
幕末期になると、多摩の農民は剣術だけではなく、ゲベール銃による「農兵銃隊」まで組織していました。
要は、それだけ殺伐としていたのですね。
郷中教育を習得した究極の戦士である薩摩藩士と、多摩の農民出身の剣士たちがトップクラスの強さ。
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関東、どんだけ地獄だったんよ!と思ってしまう話ですね。
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