上野彦馬

坂本龍馬と上野彦馬/wikipediaより引用

幕末・維新

あの龍馬の写真も撮影された 上野彦馬は日本人初のプロカメラマン

幕末がそれ以前の時代と大きく異なる点――。

何と言っても肖像写真が残っていることでしょう。

かつては別人の写真が流通しており、遺族がホンモノの公開に踏み切った斎藤一

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そうかと思えば本人が写真を嫌がり、キヨッソーネの描いた肖像画が広く出回っている西郷隆盛など。

西郷隆盛byキヨッソーネ/wikipediaより引用

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なかなか混沌としております。

実はコラージュを作ったり、修正をしたり。

そればかりでなく、現代人のように、コスプレ、グロ画像、エロ画像……そんな後ろめたい楽しみ方も200年近く前からあったものでした。

そんな中、日本人初ではないか?と思われるプロカメラマンがいます。

上野彦馬(うえの ひこま)――。

あの龍馬の有名な写真も、彼が直接撮影したものではないものの、上野のスタジオで撮られたものだったりします。

現代で龍馬がこれほど愛される人物になったのも、あの一枚があったから、とはあながち言い過ぎでもないでしょう。

本稿では、そんな写真の歴史と共に上野の功績を振り返ってみたいと思います。

上野のスタジオで撮影された坂本龍馬/wikipediaより引用

 

肖像画から肖像写真へ

自分や家族の姿を残したい――。

そんな欲求は、昔からあるものでした。

西洋では、ルネサンス時代から写実的な肖像画が残されてきたものです。

そして、それは絵でありますから、実物より美しくできるもの。

ギリシャやローマ神話の人物に見立てる。小道具や背景でイメージ戦略を練る。老けさせない。

そういうことも可能でした。

エリザベス1世の場合、何歳になっても若い頃そのままの肖像画を残し続けたもので。盛ったものと、盛らないもののギャップは、なかなか凄いものがあります。

言わば盛りザベス女王と。

エリザベス女王/wikipediaより引用

盛らナベス女王って感じでしょうか。

エリザベス女王/wikipediaより引用

中にはゴヤのように「王族の肖像画だろうと、盛らねえし」と、盛ることを拒否する画家もおりまして。

スペイン王家の肖像画は「ありのまま」と当時から評判でした

ゴヤと同時代、大人気だった肖像画家がルブランです。

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彼女のタッチは、美肌効果抜群、魅力を引き出す繊細さが大人気でした。

マリー・アントワネットはじめ、多くの上流階級女性が顧客だったものです。

シュミーズ・ドレスを着たマリー・アントワネット(1783年)/wikipediaより引用

こちらの肖像画はシュミーズドレスが軽薄だと悪評をかいましたが、画家のせいではなく、衣装センスの問題でしょう。

ゴヤやルブランが巻き込まれたフランス革命からナポレオン戦争は、かように肖像画の全盛期。

そして19世紀前半から、写真が普及し始めます。

ヴィクトリア女王は、長い在位期間に肖像画から写真に切り替わった代表例でしょう。

即位当初からしばらくの間は、堂々たる絶世の美女というよりも、小柄で可憐な肖像画が残る女王。

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それが晩年の女帝となると、気難しい顔をした写真に切り替わってゆきました。

夫・アルバートヴィクトリア女王(1854年)/wikipediaより引用

何かと苦労の多い人生経験と老化のせいなのか?

それとも写真は美化できないせいなのか?

なかなか興味深いところです。

そんなヴィクトリア女王の治世に、開国へと向かっていったのが日本です。

写真は海を越えて、東の果てにも届きました。

 

長崎に伝わったダゲレオタイプ

カメラの技術そのものは、写真よりもずっと前にありました。

平賀源内も、箱とレンズを組み合わせた「写真鏡」を作っています。

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この技術と化学薬品を組み合わせ、画像を写す技術が写真であり、硝酸銀を使った試みは18世紀から行われて来ました。

1839年、その技術がついに実用化。

フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって「ダゲレオタイプ(銀板写真)」と呼ばれる技術が世に送り出されます。

ダゲールによる写真『Boulevard du Temple』。1838年から1839年の間に撮影/wikipediaより引用

それから僅か4年後。

1843年(天保14年)の長崎に、オランダ船が写真機を持ち運んできました。

強い興味関心を抱いたのが、蘭学者である上野俊之丞です。

好奇心旺盛で、蘭学の習得に熱意のあった俊之丞ですが、機材をじっくりと観察するわけにはいきません。

当時、幕府は蘭学への取り締まりを強化していました。

渡辺崋山高野長英が災禍に見舞われたのも、その弾圧のせいです。

オランダ語の翻訳に許可が必要となり、幕府の目をかいくぐらなければならない、暗黒時代でした。

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それから10年もたたない1851年(嘉永4年)、俊之丞は享年62で亡くなっています。

時はペリー来航の前年、まさに幕末前夜。

しかし俊之丞には、彦馬という子がいました。

彼こそが、幕末においてプロカメラマンとなるのです。

 

プロカメラマン上野彦馬

彦馬はダゲレオタイプ写真と同じころ、1838年(天保9年)に生まれました。

そんな彼の一生をたどることは、幕末から明治にかけての写真受容をたどることでもあります。

ざっと振り返ってみましょう。

蘭学者の父と、教養溢れる母のもとで生まれた彦馬は、幼い頃から秀才でした。

上野家では、日常会話でもオランダ語が飛び交うほど。10代で広瀬淡窓の咸宜園に学んだあと、激動の1858年(安政5年)、医学伝習所に入学します。

ここでオランダ軍医ポンペから、学んだのが湿板写真の技術でした。

1878年当時のカメラ/wikipediaより引用

これだ!

彦馬はそう大興奮し、医学を並ぶことはやめて、舎密試験所で舎密学(化学)を学ぶこととなったのです。

蘭書を読み漁り、同僚の堀江鍬次郎ら写真に取り組むわけですが、そもそも撮影に必要な薬品があります。

そこで自作した……と、簡単にまとめられないほどの苦労をしております。

【上野手作りの薬品】

・アルコール
→焼酎やポンペからもらったジンを煮詰める

・アンモニア
→牛骨を埋めて、腐らせて掘り出し、煮詰める

青酸カリ
→牛の血を日光で乾燥させ、分析して精製する

肉食すら珍しい幕末に、こんなことをしたら、周囲からすればマッドサイエンティストにしか思えません。

実際「キリシタンの妖術でもやっているのか?」と噂されただけでなく、彦馬の姉が「弟の気持ち悪い実験で自分の婚期が遅れる」と嘆くほどです。まぁ、これは責任転嫁の部分もありましたが。

彦馬は江戸に遊学し、来日していたフランス人写真家ロシエに師事。

写真のための化学を学ぶ日々を送ります。

ロシエが撮影した横浜(1859年)/wikipediaより引用

長崎に戻ってからは、カメラを持って撮影に励む毎日です。

そして1862年(文久元年)、故郷長崎で「上野撮影局」を開きました。

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