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【井伊直弼】
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弘化4年(1847年)、直弼は政治の舞台において発言力を見せています。
海外からの船舶が接近する情勢の中、彦根藩は、相州警備の幕命を受けました。
しかし直弼は、井伊家は京都守護の家柄であり、二カ所も同時に守ることは不可能だと反発します。
井伊家は、2代目の井伊直孝以来、京都守護を行うことが慣例となっていました。正式な任命ではなく、家康が京都で鷹狩りを行った際に、密命を受けたのが始まりとされています。
直弼が相州警備に反発したのは、それだけが理由ではありません。
天下第一、先鋒として役割を果たすべき井伊家が、警備において不備を指摘されては不名誉なことであると考えてのこと。
この井伊家は別格であるという強い意識は、直弼の心の底にしっかりと刻みこまれたものでした。
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彦根藩主・井伊直弼
嘉永3年(1850年)、直亮が国元で死去。
これを受け、直弼は井伊家第13代35万石の藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)を称しました。
直弼は養父・直亮の遺志であるとして、領民に15万両の大金を分配し、翌年近江に入ると、藩政改革に着手しました。
直弼の内政手段は優れたものがあり、名君と呼ばれるにふさわしいものがありました。
藩主として人材登用した中には、長野主膳も含まれており、彼も実務能力の高い人物。そして、それゆえ後年恨みを買うことにもなるのでした……。

長野主膳/wikipediaより引用
黒船来航、直弼VS斉昭
嘉永6年(1853年)、黒船来航というXデーが訪れました。
しかもタイミング悪く、将軍であった徳川家慶が死去、幕府は大変な状態に陥ります。
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そしてその翌年の安政元年(1854年)、ペリーが再度来港します。

ペリー来航/wikipediaより引用
立て続けに舞い込んでくる幕府への重圧。
江戸城西湖之間(さいこのま)では、ペリーへの対応をめぐり、激論が交わされました。
「異人の船なぞ、打ち払ってしまえばよい!」
そう強硬な攘夷論を主張したのが、水戸藩主・徳川斉昭です。
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これに対して、直弼と佐倉藩主・堀田正睦らとは大反対します。
「異国船を打ち払うなぞ、もはやできません。ここは穏便に和平の道を探るべきです!」
両者は真っ向から対立。
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それまで直弼と斉昭は、良好な関係を築いていました。
しかし、このときをキッカケに両者の関係は破綻。この対立が、幕末の政局を悪い方向に動かしてしまいます。
問題山積みの政局
黒船がらみの外交だけでも四苦八苦なのに、当時の幕府にはそれ以外の様々な問題が重なっていました。
ザッと挙げますと……。
さらに悪いことは重なるもので、安政4年(1857年)、老中首座で調整役だった阿部正弘が若くして急死してしまうのです。
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後任者の井伊直弼と堀田正睦も、決して無能な人物ではありません。むしろ優秀でなければ幕府の中枢には引き揚げられません。
ただ両者には、阿部のような柔軟さがなかったのです。
無謀な攘夷をせよ!せよ!とけしかけてくる水戸斉昭を即座に幕政から追放。
この状況に堀田への怒りを滾らせた斉昭は、この後、政治をさらなる混乱へと導いていくことになるのです。
井伊直弼の政治構想
幕末ドラマにありがちな井伊直弼像とは?
険悪で強引な態度だったり、あるいは「井伊の赤鬼」というアダ名に相応しいコワモテのおじさんでしょう。
とにかく、もう【安政の大獄】を引き起こした悪いヤツ!そんな印象ばかりが先に立ちます。
彼が何を考え、どうしてあのような行動をとったのか。
そこまで描かれることはありませんし、学校の授業で習うこともないでしょう。
僭越ながら、この段階での彼の考えを整理させていただきます。
◆朝廷を軽んじたわけではない
長野主膳から国学を学んだ井伊直弼は、決して朝廷を軽んじていたわけではありません。
むしろ「皇国」という概念を用いています。
天皇を中心とした日本の自立を重視していたのです
◆公武合体の起点
日米和親条約に関しては、関白・九条尚忠に働きかけ、幕府支持を認めさせていました。
直弼は幕府と朝廷が協力して国難に当たることを第一目標としていたのです。
和宮降嫁も、直弼が構想として抱いていたものです。
この「公武合体政策」は、直弼の死後、多くの支持者を得ます。孝明天皇、久邇宮朝彦親王、島津久光、山内容堂、松平容保等)
◆消極的な南紀派であった
将軍継嗣問題においては、堀田と直弼は南紀派でした。
ただし、消去法で「彼しかいないだろう」という程度。
将軍継嗣問題の本質はこのようなもので、南紀派は積極的に推すというよりも「さすがに一橋家だけはない」という「アンチ一橋派」であったようなものです。
(徳川慶喜の父である)徳川斉昭にもっと人望があれば、逆に問題行動が少なければ……と思わなくもありません
◆外交政策は落としどころを探っており、現実的
直弼の外国政策は、対外的な落としどころをうまく探ったものでした。
日本の文化や天皇を中心とした国柄を重視し、諸外国に日本の自立的外交を認めさせつつ、開港するというもの。
外国への屈服ではなく、あくまでも自立を保つというところはゆずれない点でした
悪くないんです。
現実的で、ちゃんとした落としどころを探っているわけです。
ですので
【朝廷を無視して、屈辱的な開国をした奸臣!】
そんな風に直弼を叩く向きがあるとすれば、いささか可哀想だなぁという感じです。
「日米和親条約」も、アメリカ代表のハリス側がゴリ推しして不平等条約を押しつけた、そんな印象があります。
実はそこまで悪くはありませんし、ハリスと幕府はきっちりと交渉をしています。
互いに相手の意見を吟味し、落としどころを探った末の結果でした。
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確かにアメリカの交渉は、武力をチラつかせつつ迫る砲艦外交という側面はあります。
しかし、実際には日米間できちんとした交渉が行われております。一方的な不平等条約ではなく、互いを尊重している面もあるということは考えなければいけません。
幕府と交渉した諸外国が態度を硬化させていったのは、むしろ攘夷テロ事件が続発するようになってから。というのも……。
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