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【凌霜隊】
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脱藩、そして「凌霜隊」結成
江戸の郡上藩の屋敷から、腕の立ちそうな武士が一人、また一人と立ち去りました。
彼らは旅籠菊屋に続々と足を踏み入れてゆきます。
その彼らの前で、指揮を執ると宣言した少年がいます。
わずか17歳の朝比奈茂吉。
江戸家老・朝比奈藤兵衛の息子でした。
脱藩藩士となった彼ら45名は、幕府のために戦うと誓います。
隊の名は「凌霜隊(りょうそうたい)」。
青山家の家紋である「葉菊紋(菊の御紋を葉が護る)」から取られたとされ、隊名には覚悟も込められていました。
霜を凌(しの)いで戦う――そんな苦難へ立ち向かおうとする意志を感じさせるのです。
藩からは、スペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲、ツルハシ、鍬、シャベルといった物資が届きます。
砲術指南や軍医も従軍し、小規模とはいえ装備の充実した部隊でした。
慶応4年(1868年)4月11日。
江戸は無血開城。
凌霜隊は会津を目指しました。幕府サイドの人々が集まる目的地が、その地だったのです。
当時の関東地方は、東軍と、それを追撃する西軍が戦闘しながら、進撃してゆく大変な状況に陥っていました。
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会津へと向かう途中の4月16日。
大鳥圭介らが指揮する伝習隊(幕府の精鋭部隊)の一部として統合された凌霜隊は、境宿で戦闘に陥ります。
新型銃のおかげもあってか、ここで彼らは見事に勝利(小山の戦い)。
同時に苦い結果も残りました。
死傷者2名、行方不明者2名、逃亡者2名。
勝利を得たとはいえ、会津はまだまだ遠い。まだ若い隊長の茂吉としても、内心は戸惑い、心細かったことでしょう。
土方歳三も参戦した「宇都宮城の戦い」を戦い、奮戦しながら、凌霜隊は会津を目指します。
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そして転戦を重ね、苦難の末、4月28日に副長・速水小三郎は会津若松城に入ります。
そこで松平容保に謁見。
凌霜隊は会津藩所属と認められたのでした。
西軍有利の戦況が届く中、どうにか目的を達成した凌霜隊でしたが……。
塩原温泉郷で見せた慈悲
会津藩士・小山田伝四郎のもと、凌霜隊は塩原温泉郷での防衛任務に就任。
5月11日から三ヶ月ほど、塩原に滞在することになります。
戦局が悪化する8月21日、凌霜隊は、建物を焼き払っての全軍退却を命じられます。
そこで隊長の茂吉は苦悩しました。
『三ヶ月も世話になった宿を焼き払うなんて……』
茂吉は守備隊長に抗議しますが、小山田は聞き入れません。
茂吉に出来たことは、名主に焼き払うことを伝え、家財道具を運び出すよう言い渡すことだけでした。
塩原温泉郷は、猛火に包まれてゆきます。
妙雲寺まで火をかけようとしたところ、隊士が寺には見事な菊の紋章が描かれていると茂吉に伝えてきました。
菊を焼けば、天皇を擁した西軍に責められるのではないかと懸念したのです。
「どうか妙雲寺だけは! お見逃しください、会津のお侍は聞いてくれません! 凌霜隊の皆様におすがりするしか……」
住民たちは、涙ながらに凌霜隊の慈悲にすがろうとしています。
そこで茂吉は、寺の横に畳や薪を積み上げて、火を放つことにします。
妙雲寺は炎と煙に包まれました。
茂吉は火を放ったふりをして、寺を救ったのです。
戦いの中、慈悲の心を見せた凌霜隊でした。
会津で白虎隊と共闘
ここから先は、撤退戦の始まりです。
会津南部の田島、大内宿を経由して、凌霜隊は会津若松城を目指しました。
が、大内峠で西軍との戦闘になり、全軍撤退。
北へと進軍していた凌霜隊は、疲労と戦闘でもはや限界に近い状態です。
果たして入城できるのか?
そんな不安に駆られながらも、9月4日になんとか会津若松城下に到達し、秋月悌次郎の邸宅に落ち着きました。
それから籠城することになった凌霜隊は、日向内記の指揮下に入ります。白虎隊とともに西出丸の防衛を請け負ったのです。
激しい籠城戦で、一人、また一人と、凌霜隊の郡上藩士たちも斃れてゆきました。
そして一ヶ月の激しい籠城の果てに、会津藩は降伏をします。
9月21日。
日向内記に呼び出された茂吉は、降伏すると聞かされます。
はるばる会津まで駆けつけ、戦った意味は何だろうか?
斃れてしまった仲間に、どう詫びたらばよいのか?
まだ若い茂吉の胸には、辛い思いがわき上がってきたことでしょう。
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