調所広郷

調所広郷/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末薩摩の財政を立て直した調所広郷が一家離散~なぜこんな仕打ち?

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「お由羅騒動」に巻き込まれ

そんな調所は、残念ながら薩摩藩内を二分する争い「お由羅騒動」に巻き込まれてしまいます。

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調所とすれば、重豪に似ている島津斉彬が藩主となるのは、悪夢の再来に他なりません。

生涯をかけて何とかした借金地獄がまた蘇るのは、絶対に避けたい。そう考えるのは当たり前のことでした。

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そもそもこの「お由羅騒動」ですが、由羅が「斉彬の子を呪詛した」という嫌疑自体が疑わしいものです。

誤解を恐れずに申し上げれば、言いがかりのようなもの。

担ぎあげられた島津久光にせよいい迷惑というものでして、当人が藩主の座を狙っていたものではありません。実際に斉彬と久光の兄弟仲が良かったことからもそれは窺えるでしょう。

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しかし斉彬派はここで、ギリギリの策をやってのけます。

斉興を排除して隠居に追い込むため、老中の阿部正弘に密貿易の件を密告するのです(そんなものは江戸初期からやっていたことで、今更というところですが……)。

 


江戸の薩摩藩邸で急死

嘉永元年(1848年)、江戸に向かった調所は、老中・阿部正弘から密貿易の件を追及されました。

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そして取り調べが島津家にも及ぶかと思われたその直前。

調所は江戸の薩摩藩邸で急死します。

おそらくは主君・斉興に罪が及ぶのをおそれ、罪をすべて自分でかぶった上での、覚悟の自殺――。

享年73。

調所の元で共に改革を進めていた薩摩藩士・海老原清熈は、彼を悼み、こう詠みました。

かくとだの言はまほしけれ苔の下の君が心の底も知られて

部下である海老原は、調所が辣腕を振るい「鬼の調所」と呼ばれる様子を目にしてきました。

高齢になっても家老を辞めようとせず、改革を成し遂げたいとする気持ちも理解してきました。

誰が好き好んで「鬼の調所」と陰口を叩かれたいものでしょうか。

海老原には痛いほど、彼の気持ちがわかっていました。そんな気持ちがこめられた歌です。

しかし、その海老原も斉彬派に憎まれ、調所の死後隠居。文久3年(1863)には、追罰を受けました。

 

調所一族の不幸

冷静に考えてみると、本当にお由羅が暗躍していたのかも不明瞭。

斉興と調所の気持ちも理解できる、そんな哀しい事件が「お由羅騒動」ではないでしょうか。

勝利を収めた斉彬派も、赤山靭負らを失った恨みもあり、わだかまりが残りました。

そうはいえども、斉興と由羅を責めるわけにもいきません。2人は久光の両親であり、現藩主・忠義の祖父母にあたるわけです。

となると誰が適役か?

説明するまでもないでしょう……。

調所家の家格は下げられ、嫡子は役を解かれ、家禄と屋敷も召し上げられました。

さらには彼の死から15年後も遺族に追罰が下されるという、悲惨な目に遭うのです。

死を前にした調所は「自分のことは仕方ないが、子孫はどうなるか」と案じていたそうです。

まさしくその予感が的中してしまい、遺族は日陰者として生きるほかなく、一家は離散します。

救いは三男の広丈が、明治維新後、政治家として成功したことでしょうか。

調所広丈/wikipediaより引用

調所が世を去り、その配下も斉彬派によって政界を追われた後、皮肉にも、調所の読みはあたりました。

斉彬は確かに開明の時代を開いています。

ただし、彼の行った大砲や軍艦の開発は金がかかり、結果的に増税するほかありませんでした。

開発費は莫大であり、自前で開発するよりも、調所や斉興が考えていたように輸入した方が安上がりだということもわかりました。

まぁ、これはあくまで結果論で、斉彬の進取の精神自体を責められないですが、かといって調所広郷の人格、見識まで貶めるのはおかしいものです。

斉彬の後を継いだ忠義とその父・久光の時代、薩摩藩が選択した手っ取り早い収入増加の手段は、やはり密貿易でした。

しかも今度の相手は、イギリス。

こうした事実は、調所のやり方が間違っていなかったことを証明します。

それでも調所の名誉回復は、ずっと先のことです。

島津斉彬、西郷隆盛大久保利通らが評価される陰で、調所の名は奸臣として語り続けられました。

※調所一族の墓は東京に移され、平成13年(2001年)になってやっと鹿児島に戻されます

 


「ヅショドン」の墓

苗代川の人々は、調所の死を大いに悼みました。

彼らは代表者を江戸まで派遣して、調所に哀悼の意を示すとともに、遺品をもらい受けます。

そしてそれを埋めて、調所を弔うための質素な墓を作りました。

調所広郷の招魂墓/日置市観光協会

「ヅショドン」

苗代川の人々はこの墓をそう呼び、調所を悼み続けました。

調所は奸臣どころか薩摩を救った縁の下の英雄ではないか――。

そんな祈りを捧げてくれた人々もいた、そのことだけが彼の魂を慰めてくれたことでしょう。


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文:小檜山青note

【参考文献】

五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon

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