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【三条実美と七卿落ち】
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八月十八日の政変で「七卿落ち」
この翌月、三条実美は新たに設置された「国事御用掛」の一員となります。
翌文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂が上洛。孝明天皇とともに賀茂神社・石清水八幡宮で攘夷祈願を行いました。
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実美は、ここで御用掛を勤めています。
一方、家茂は、朝廷の勢いに押されて5月には攘夷を行うと約束、江戸に戻ることとなりました。
孝明天皇は、妹・和宮の夫であり、誠実な家茂の人柄が気に入ったのでしょう。
長州藩や実美ら尊王攘夷派が「いよいよ攘夷だ!」と盛り上がる中、肝心の孝明天皇は彼らに嫌悪感すら覚えていました。
やたらとヒートアップする長州藩を何とかして欲しいと考えていたのです。
その意を受け、天皇の側近・久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)、薩摩藩、会津藩らは「八月十八日の政変」を起こします。
京都から長州藩が追い出されることになったのです。
それに伴い尊王攘夷派の公家七名に対し、追放処分が下されます。
一般的に「七卿落ち」とも呼ばれておりまして、実美はじめ、以下がそのメンバーとなります。
・三条実美
・三条西季知
(さんじょうにし すえとも)
・東久世通禧
(ひがしくぜ みちとみ)
・壬生基修
(みぶ もとおさ)
・四条隆謌
(しじょう たかうた)
・錦小路頼徳
(にしきこうじ よりのり)
・沢宣嘉
(さわ のぶよし)
さすが貴族だけあって、現代の我々には難解な漢字の名前ですね。
ほとんど日本史受験の問題には挙がらないので、受験生の方は助かったのでしょう。
特に、三条西季知あたりがややこしいかもしれません。
「さんじょうにし」と読みまして、元々は藤原北家の名門貴族であり、鎌倉時代から続く家でした。
捲土重来を目指す
三条実美らは、暴風雨の中、長州藩を目指しました。
七卿は官位を褫奪されてしまったため、例えば実美は実(まこと)、または梨木誠斎(ナシキ セイサイ)の変名を用いることとなります。変名まで難解な読み方ですね。
そして彼らは「君側の奸(くんそくのかん、主君をたぶらかす奸臣の意味)」らを一掃し、政務へ復帰してやる!とばかりに虎視眈々と再上洛のチャンスを狙います。
平野国臣が但馬・生野で挙兵することが伝わると、沢宣嘉が脱走して単身挙兵に参加しました。
が、この挙兵は失敗、沢宣嘉は逃亡します。
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さらには錦小路頼徳が潜伏中に病死し、七卿は五卿に。
こののち、第一次長州征討では五卿の引き渡しが問題となります。
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彼らを擁立されると困ると考えた長州藩は、筑前藩へ送り、後に太宰府に移されます。
そして五年にわたる苦難を乗り越え、慶応3年(1867年)、実美らは京都政界に議定として復帰を果たしたのでした。
議定とは、明治政府に設置された官職の一つ(1869年太政官制の導入によって廃止)で、「法律の制定」や「条約の締結」、「三等官以上の人事」などを司ります。
「総裁・議定・参与」からなる「三職」の一つで、かなり重要なポジションでした。
華麗なる明治以降の経歴
翌明治元年(1868年)は、三条実美にとって輝かしい年の始まりでした。
正月9日、岩倉具視と並んで、新政府副総裁に任じられたのです。
幕末の動乱最初期から、尊王攘夷派公家として活動していた「お疲れ様でした」という人事ですね。この功績により、5千石も得ています。
実美の出世ルートは華やかです。
明治2年(1869年)には右大臣、明治4年(1871年)には太政大臣となります。
ただし、実美は岩倉具視と比較すると、政治力が不足していた感は否めません。
高い地位に就いていたものの、あまり活躍したようには思えないのです。
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征韓論で錯乱
そんな三条実美は、意外な形で政局に影響を与えます。
明治6年(1873年)、征韓論の政治闘争において両派に挟まれ、極度のストレスのためか、倒れてしまうのです。
アルコール中毒だったという話まであります。
ただ、普通に倒れたというよりも、大久保利通によれば「精神が錯乱した」とまで述べておりまして。
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政務も行うことができず、実美は辞表を提出。岩倉具視が後任となりました。
この岩倉が、西郷隆盛の朝鮮派遣案を一掃するのです。
結果、西郷一派は下野し、後の西南戦争へと繋がるのですから、歴史的意義は大きいものでした。
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しかし実美はその後も明治政府に残ります。
明治18年(1885年)の太政官制廃止まで、政府最高の地位におりました。
のみならず、太政官廃止で内大臣となり、明治22年(1889年)、黒田内閣のあとに2ヶ月間だけ首相、つまり総理大臣まで兼任しています。
ただし、このときの内閣は、あくまで黒田内閣の延長であり、歴代の総理大臣には含められておりません。暫定扱いなのです。
明治24年(1891年)に病死。
享年55。
公家出身者の大半が名誉職に就きましたが、彼と岩倉具視は高い地位を保ちました。
ただし、温和な性格であるためかストレスが溜まりやすく、それが征韓論の際にも出てしまったようです。
岩倉と比較するとちょっと目立たないのですが、それでも公家出身者の政治家としては屈指の人物と言えましょう。
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文:小檜山青
【参考文献】
『国史大辞典』
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
ほか