板垣退助

いずれも板垣退助(左から44歳・60歳・70歳の頃)/wikipediaより引用

幕末・維新

喧嘩っ早いで有名だった板垣退助の生涯~実は龍馬と同世代の土佐藩士

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板垣退助
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吉田東洋の教えを受ける

退助の親友である後藤象二郎は、両親と祖母を相次いで亡くし、親戚のもとで冷遇される日々を送っていました。

そんな象二郎を義理の叔父にあたる吉田東洋が引き取ります。

東洋は、「老公」として権勢を振るう山内容堂に師匠と仰がれていたものの、暴力沙汰で謹慎へ。

その謹慎期間中の安政2年(1855年)から安政5年(1858年)にかけて「少林塾」を開き、青少年の教育にあたりました。

そこで共に机を並べたとされるのが後藤象二郎、岩崎弥太郎、谷干城、福岡孝弟など、土佐の有名人たちです。

実際に塾にいたかどうか諸説ありますが、後の行動からして、退助は親友である後藤らと意を同じくしていたと考えられます。

彼らは、東洋が政治復帰するとそのもとで活躍し、【新おこぜ組】と称されました。

その後、文久元年(1861年)から退助は、江戸留守役に任ぜられます。

江戸で、お役目を果たしながら自らも研鑽の日々。

するとその翌文久2年(1862年)に、吉田東洋が武市半平太が率いる【土佐勤王党】により暗殺されるというショッキングな事件が起きてしまいます。

吉田東洋/wikipediaより引用

容堂は、武市半平太らの言いなりになったようなふりをしながら復讐心を秘めていました。そして文久3年(1863年)、京都から土佐に帰国すると【土佐勤王党】の逮捕を命じます。

元治元年(1864年)、土佐勤王党が囚われた獄に、退助は象二郎と共に訊問するため姿を見せました。

かくして東洋の意を継ぐ少壮気鋭の藩士たちは、土佐藩独自の政策に従い、各所で奔走。

慶応3年(1867年)には、退助も中岡慎太郎と共に【薩土盟約】の締結に走りました。

幕末の土佐藩については、佐幕的なスタンスであるとか、どっちつかずであると評されます。

長州征討】の復讐に燃える長州藩。

その長州藩に呼応する薩摩藩上層部とは異なり、土佐藩は武力を行使しない倒幕を目指していたのです。

しかしその方針は決裂し、薩摩と長州は強引な武力倒幕へ突き進んでゆきました。

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結局、土佐藩が徳川慶喜と示し合わせて実現した【大政奉還】も、武力行使を避けられなかったのです。

かくして【戊辰戦争】が勃発しました。

 

戊辰戦争で戦う

慶応4(1868年)1月――退助は大隊司令として出陣します。

このとき「乾」から武田信玄に仕えた先祖・板垣信方の「板垣」に名を変えました。本稿でもこれから先は「板垣」とします。

甲州勝沼では近藤勇土方歳三ら率いる幕府軍を撃破。

東山道先鋒総督府兼参謀として三千の兵を率いると、母成峠を越え、会津藩へ乗り込みました。

この素早い進軍に会津藩はなす術もなく、戸ノ口原から退却する途中、白虎隊士中二番隊隊士たちは自刃。

滝沢峠を越えて板垣は攻め込みます。

「遅れる者がおったら斬るぞ!」

そう呼びかけ、勇猛果敢に突き進む板垣。

この勝利をもって、凱旋した板垣には300両が下賜されたのでした。

 

新政府からの下野、そして自由民権運動へ

戊辰戦争の混乱を経て、始まった明治の世。

明治2年(1869年)に板垣は、土佐藩の大参事として藩政改革に乗り出しました。明治4年(1871年)には新政府参議に任ぜられています。

しかし、明治6年(1873年)の【征韓論争】に巻き込まれると、盟友・後藤象二郎ともども下野しました。これを【明治六年政変】と呼びます。

とはいえ西郷に心酔していたわけでもなく、明治10年(1877年)に【西南戦争】が勃発すると、激しく西郷を非難。

「己の私憤を発散するために人を損耗し、金を使う。そうして逆賊の汚名を残すとはどういうことであろうか。まっとうな者のすることではない!」

喧嘩っ早いことで有名だった板垣ですが、西郷とは異なり、武力ではない道で戦おうと立ち上がりました。

そして明治7年(1874年)、板垣は後藤象二郎と愛国公党を結成します。

ご存知、「民撰議院設立建白書」を政府に提出し、これを機に自由民権運動が始まったのです。

ただ、自由民権運動は自発的な要素がいくつもあり、この建白書が決定的であるとか、革新的であると言い切るのは慎重になった方がよさそうです。

理由は以下の通り。

・幕末から鬱積している世直しへの渇望

→1860年代のあたりから、民衆による政治改革への意識が高まってゆきました。

維新でそんな熱気が消え去るほど甘くはありません。時にテロリズムを引き起こす熱気は、のちに板垣自身をも襲うことになります。

・藩閥政治への不満

→薩長土肥のうち、脱落した土肥の失望は特に大きなものでした。

・議会政治への渇望

→幕末から議会政治への期待感を抱いていた者は多く、そうした人々からすれば政府の政治には不満がありました。

・民衆の生活は後回し

→経済対策の「富国」にせよ、戦争へ向けた「強兵」にせよ、民衆の生活は後回しでした。

・覚醒

江戸時代まで政治のことはタブーだったのに、むしろ政治を語ることが重要になった。

これも明治維新の成果であり、政府は向き合わねばなりません。

急激な改革についていけないのではなく、明治政府の政治は幕末以来の社会変動に対処できたとは言えない面も多々あったのです。

その不満が西南戦争で終わりを迎えた【不平士族の反乱】であり、【自由民権運動】でした。

自由民権運動は、こうした沸騰する思いを掬い取ったものといえます。

しかし当初は土佐藩出身者の政治への不満をぶつけたものであり、次へのビジョンは見えていない。

留学生がブレーンとして参加し、西洋流の政治体制を目指すことを骨子として、整えられてゆきました。

自由民権運動といえば板垣退助が突出して有名ですが、日本各地に活動家はいて、彼らは容赦ない弾圧を受けています。

例えば福島県では、薩摩出身の「鬼県令」こと三島通庸が激しい弾圧を加え、自由党員を逮捕させました。

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こうして逮捕された囚人は北海道の網走監獄へ送り込まれ、強引な開拓に従事させられることもあったほどです。

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