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【禁門の変(蛤御門の変)】
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長州藩兵、上洛
運命の元治元年(1864年)6月15日。
長州藩進発派の中でも、過激な言動で知られる来島又兵衛が、遊撃隊300を率いて出立しました。
翌日には、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎も、三田尻を出航。
長州藩兵3千名は、伏見・嵯峨・山崎に着陣しました。
さて、長州藩は結構な数の兵を率いております。ただ嘆願するだけなら、こんなに多くの兵を連れて来なくてもよいと思うかもしれません。
要は、実戦を想定したものではなく、武力による揺さぶりをかけるためのものでした。
長州藩勢は、行く先々で彼らに同情的な大名や公卿に、正統性をアピールしました。
京都の民衆は、殺伐とした新選組と、その雇用主であり財布の紐が固い会津藩士らを嫌う一方、気前が良く粋な遊びっぷりをする長州藩士には、好意を抱いておりました。
こうした人々の同情や好意が背後にあれば、主張も通りやすいのではないか――そんな希望的観測もあったことでしょう。
しかし、政権を掌握する将軍後見職にして禁門守衛総督の一橋慶喜は冷たいものでした。
「武力を背景とした嘆願など、認めるわけにはいかん」
7月17日には、朝廷も長州に撤兵を通達。翌日、長州勢の指揮官たち20名ほどで、今後についての協議が行われます。
ここで、過激な来島と、慎重な久坂の間で、意見が割れてしまいました。
「朝廷は君側の奸(くんそくのかん・薩摩や会津らを指す)に操られちょる。奴らを取り除いてからでなけりゃあ、話にならん!」
「元々わしらは戦をしに来ちょるわけじゃない。世子(毛利元徳)率いる軍勢を待ってからでも遅うはないじゃろう」
「この卑怯者めが! 世子到着の前に奸を取り除かにゃあいかんたぁ思わんのか!」
久坂は、来島の激情に巻き込まれ、ついに武力による進撃が決定します。
「禁門の変」当日
18日夜半、3人の家老が兵を率いて京へ出立します。
そして大敗するのです。
伏見方面:福原越後元たけ(にんべん+間)が指揮、伏見街道で大垣藩兵によって撃退される
嵯峨方面:国司信濃親相が指揮し、蛤御門前で会津・薩摩藩兵により撃退される。来島又兵衛は戦死
山崎方面:益田右衛門介親施が指揮して、山崎方面へ出撃する。関白・鷹司輔煕邸裏門から御所突入を目指したものの、越前藩兵に阻まれ、寺島忠三郎、久坂玄瑞自刃、入江九一は戦死。真木和泉保臣は脱出後、天王山で抗戦後に自害した
一方的に敗れた彼らは、同志200名以上の屍を回収することもできないまま、脱出するしかありませんでした。
このとき九死に一生を得た桂小五郎(木戸孝允)は、但馬方面に脱出し、潜伏しております。
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戦闘の影響で、京都は大火「どんどん焼け」に見舞われ、公家邸はじめ約28,000戸の民家も焼失してしまいました。
出火原因は、ハッキリ特定されていません。
当時の京都の人々は長州藩士に同情的であり、会津藩士や新撰組隊士が敵を追い詰めるために放火したせいだ、と考えたかったようです。
ただ、市街地で火器を用いた戦闘をすれば、火災の発生は不可避でして。
特定の誰かが悪いとすることにはムリがあるような気がします。
「長州征討」の挫折
いくら理屈を並べようと、御所に弓引く行動は正当化できないものです。
変の終了後、孝明天皇による嫌悪感は頂点に達し、ついに長州藩は「朝敵」として認定されました。
その一方で、
らに対する信頼感が高まっていきます。
こうした孝明天皇と幕府の取り組みに対し、危機感を抱いたのは長州だけでなく薩摩も同じでした。
孝明天皇の強い要請により、長州藩はついに征討の対象となってしまいます。
薩長同盟は、倒幕をめざす軍事同盟と解釈されることが多いのですが、実際には薩摩藩が長州藩の朝敵認定取り消しを目指して接近したものであり、軍事同盟というほど強固ではないという見方があります。
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いずれにせよ薩長の思惑が重なり、幕府主導の長州征討は、西郷隆盛のサボタージュにより頓挫。
幕府倒壊を防ぐラストチャンスはこのとき潰えてしまったと、のちに回想されることとなります。
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そしてこのころ孝明天皇が崩御。
政治の潮目は劇的に変わってゆきます。
薩摩と手を組み、長州は政局に復帰、明治維新を成し遂げ、ついに勝者となったのです。
「朝敵」の恐怖と、その復讐
幕末の複雑怪奇な政局を最終的に制覇し、勝者となった長州藩。
しかし、一旦「朝敵」認定されたトラウマは、のちに大きな影響を与えたはずです。
長州藩の激しい敵意は、和解した薩摩藩はともかく、会津藩にぶつけられました。
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敗戦後も、桂小五郎改め木戸孝允は、会津藩士に冷酷な措置を主張。
全藩流刑ともいえる、斗南藩への移住を強制したのでした。
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彼らがこれほどまでに会津藩に敵意を燃やしたのは、自身が一度、朝敵にまで転落した恐怖感があるのかもしれません。
もしも会津藩がかつての長州藩のようにリベンジをしてきたら?
そうなる可能性を事前に潰す必要性があるわけです。
ただし、個人単位では会津藩士と交流する長州藩士がいました。
会津藩士・秋月悌次郎は、かつて交流のあった長州藩士・奥平謙輔に、優秀な若者数名を託しました。
幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは
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そのうち一人が、のちの東大総長となる山川健次郎です。
彼がアメリカ留学して大成できたのは、明治新政府の平等性のあらわれというよりは、周囲にいた好意溢れる個人のおかげでした。
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