西郷吉二郎

絵・小久ヒロ

幕末・維新

北越戦争に散った西郷の弟・西郷吉二郎~呆気なかった36年の最期

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岩井精一郎がブチギレ、最悪の北越戦争に……

河井としても、交渉相手には、もっと大物の山縣有朋か黒田清隆を望んでおりました。

しかし、これを聞いた岩村が激怒。

「この俺が若造だと思って話もこたわんとゆうのか!」

河井の申し出は、岩村により一蹴されてしまいます。

いざ会談の場でも、岩井は、頭の切れる河井に完全に言い負かされてしまいます。

そしてしまいにはブチギレ。

「ええい、どうせおんし達は時間稼ぎをしちゅうがやろ!」

かくして河井と岩村の交渉は決裂。

泥沼の北越戦争が始まります。

・長州藩 世良修蔵

・薩摩藩 大山格之助(綱良)

・土佐藩 岩村精一郎(高俊)

このあたりの人選は「もっと他に人いなかったの? 戦争したくて選んだの……?」と後世突っ込まれがちなんですよね。

もっとましな人選をしていたら……そう思ってしまいます。

東軍だけではなく、これは西軍にとっても不幸なことでありました。

ガトリング銃を装備した河井は、強烈な奇襲攻撃を仕掛けます。

山県有朋はたまらず、裸で瓢箪一つぶら下げて逃走。西園寺公望は、陣羽織を裏返しに着たうえに、馬に逆さに乗って尻尾の方を前にして逃げ出したと言われています。

「山県さん、あなた、あのとき裸で逃げましたよねえ」

後年そう言われると、さしもの山県も「いやあ……」と頭を下げたそうです。本人にとっては黒歴史でしょう。

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長岡城の戦いで戦死

戊辰戦争でも屈指の激戦である北越戦争に従軍した吉二郎。

実戦経験も少ないまま、よりによってこの戦地に従軍してしまったのは不運としか言いようがありません。

それは慶応4年(1868年)8月14日のことでした。

長岡城をめぐる攻防戦の最中、吉二郎は被弾。

そして、五十嵐川(新潟県三条市)において、呆気なく戦傷死してしまったのです。

享年36。

北越戦争・薩摩藩戦死者の墓/photo by 長岡外史 wikipediaより引用

西郷隆盛は、明治維新のあと気力を失ったかのように、中央から遠ざかってしまいます。

様々な理由がありますが、弟はじめ大切な人の死によって、やる気が削がれてしまったのかもしれません。

ジッと留守を守り、兄や家族のために尽くして来た吉二郎。

その初めての晴れ舞台で散ってしまうとは、あまりに哀しいことではないでしょうか。

もし生き延びて、戦功をあげることができていたら?

西郷隆盛の弟として、華やかな人生を送ることができたかもしれません。

兄の留守を守り、やっと歴史の表舞台に立ったと思ったら、死を迎えてしまった吉二郎。

その人生には落涙を禁じ得ません。

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イラスト:小久ヒロ
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
安岡昭男 (編集)『幕末維新大人名事典』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
『国史大辞典』

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