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【江藤新平】
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動乱と藩政改革の中で
安政元年(1854年)、江藤は弘道館を退学。
その後は、佐賀藩でも優秀な思想家として、様々な著作を発表します。
前年の嘉永6年(1853年)時点で発表した『諭鄂羅斯檄』では攘夷論者でした。
が、安政3年(1856年)『図海策』においては開国論を唱え、思想の変化もみられます。
藩内では、佐賀藩の藩政改革の波に乗り、順調に出世。
安政6年になると藩の御火術方目付となり、万延元年(1860年)には上佐賀代官手許、文久二年(1862年)には貿品方となりました。
しかし、藩内でジッとしていられないのが江藤。
文久2年(1862年)6月、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)を頼り、脱藩して京都まで行ってしまうのです。
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この年は島津久光が上洛し、政治情勢が大きく動いていた頃でした。
しかし、脱藩は死罪に値する重大犯罪です。
彼の才能を惜しんだ前藩主・鍋島直正の温情によって、帰藩・永蟄居処分を受けました。
世間の冷たい目に晒されながら、近所の子供たちに勉強を教える日々。
そんな中でも政治的見解がなかったわけではなく、幕府による「長州征討」には厳しく反対しておりました。
慶応3年(1867年)。
永蟄居処分を許され、郡目付役に復帰。
同年暮には藩主直大(なおひろ)に先行して京都へ向かいます。
そして明治元年(1868年)2月には、江戸軍監として江戸に行き、閏四月に徴士(ちょうし)となりました。
言わば高級官僚であり、明治維新に乗り遅れることなく参加した佐賀藩は、「薩長土肥」に名を連ねることに成功したのです。
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江藤は積極的に戊辰戦争にも関与。
江戸遷都、彰義隊との上野戦争では徹底抗争を主張する等して存在感を示すのでした。
敏腕官僚としての江藤
実はこの江藤、幕末の動乱期より、明治政府成立以降の方が、活躍が目立ちます。
そして、その最期は、無残で残酷なものでした。
細かい功績が多々ありますので、年月と共に追ってみましょう。
◆明治元年(1868年)
5月、江戸鎮台民政兼会計営繕判事
7月、東京鎮将府会計局判事
10月、鎮将府廃止。会計局が会計官出張所として東京府に合併されることに反対して、英米の三権分立を主張
◆明治2年(1869年)
2月、藩の参政・権大参事となり藩制改革を担当、軍制・民政改革を推進。あまりにめまぐるしい出世を嫉妬されたのか、恨みをかって暴力事件を起こされ、負傷
11月、中弁(従五位)となる。制度局取調掛として「国政改革案」をはじめ、多くの官制改革案を草して中央集権化を推進。
◆明治3年(1870年)
9月から、制度局中弁として第一回の民法編纂に参加
◆明治4年(1871年)
7月、文部大輔として、創設された文部省に入る
8月、左院議員となる
12月、左院副議長(従四位)となる
◆明治5年(1872年)
3月教部省御用掛兼勤となり、左院の官制を整備
4月司法卿となる司法権の独立、司法制度の整備などに大きな影響を与える。江藤のもとで、「改刪未定本民法」、「皇国民法仮規則」などが完成。この時代、井上馨・山県有朋などと対立する
5月、正四位
10月から民法会議を主催、審議を進める
◆明治6年(1873年)
3月「民法仮法則」を完成させる
4月、司法省から参議となる
10月、征韓論に破れて下野
◆明治7年(1874年)
1月「民撰議院設立建白」に署名
2月、不平士族をなだめるために帰郷するも、「ミイラ取りがミイラになる」。
「佐賀の乱」の指導的立場に推され、征韓党を率い政府軍と闘い、敗北。鹿児島、そして高知に逃れたが逮捕される。
4月13日、佐賀城内で斬首、梟首。享年41
そもそも江藤が斬首されるキッカケとなった佐賀の乱は、同藩内での派閥の分裂から発展しており、そこを明治新政府に突かれるようにして戦闘が勃発。
佐賀城での籠城戦は、やはり城に籠もる方が有利で一時は新政府軍を追い返すも、物量戦に持ち込まれてジリジリと不利になり、そして江藤は戦場から離脱しました。
佐賀から鹿児島へ、西郷隆盛を頼った江藤は協力を得られず、次に向かった土佐で捕まり、斬首となったワケです。
が、その斬首に至るまでの経緯が、次項で述べる通り極めて理不尽なものでした。
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