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【江藤新平】
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司法の立役者、無道の司法に死す
経歴で触れた通り、江藤は黎明期の明治政府において、特に立法分野で著しい活躍を遂げています。
日本の近代化において、英米の三権分立といった政治制度を整備しながら、実に立派な法体系を整備しようとしたと言ってよいのです。
しかし、そんな江藤の罪を問う裁判は、前近代的な、いや徳川時代よりも悪化しているかのような、いわば「暗黒裁判」でした。
土佐藩出身であり、司法省で部下だった河野敏鎌(こうのとがま)に裁かれた江藤は、ろくに弁明の機会すら与えられませんでした。
怒りのあまり江藤は河野を叱責。
これ以降、怯えた河野はろくに審議にも加わっていません。
その結果の斬首です。
しかも、江藤の晒された首の写真は土産物として販売されました。
明治政府は写真屋の勝手な行動だと弁明しましたが、新聞では「あまりに野蛮である」と厳しく批判されています。
なお梟首刑は、明治12年(1879年)を最後に廃止されています。
江藤の辞世は以下の通り。
ますらおの 涙を袖に しぼりつつ 迷う心は ただ君がため
藩閥政治の弊害あり
それにしても、なぜ、江藤ほどの男がこれほどの悲運により死なねばならなかったのか?
江藤本人の人柄もあったかもしれません。
あまりに真っ直ぐで、正しい道のためならば一歩も退かないその性格は、司法省時代に多くの敵を作ったことは確かです。
そしてもうひとつ、やはり藩閥政治の弊害です。
タラレバを言っても仕方ないですが、もしも江藤が長州藩出身であれば、同じ結末にはならなかったでしょう。
薩長土肥の藩閥政治は、明治時代において暗い影を落としました。
維新において活躍を果たしても、例えばこの四派閥に入らなかった福井藩の由利公正らは出世に限界がありました。
朝敵とみなされた会津藩あたりは、言うまでも無く冷遇の極みです。
西南戦争で大活躍を遂げた山川浩が、少将に出世すると聞いた長州藩の山県有朋は、
「山川は会津じゃないか!」
と、不快感を隠さなかったと伝わります。
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こうした藩閥政治のせいで有為の人材が埋もれただけではなく、藩閥同士が脚を引っ張り合い、多くの人を巻き込んで政治が停滞することすらありました。
江藤と佐賀藩の不遇も、こうした藩閥政治によるものです。
「薩長土肥」は次第に「薩長」だけになってゆきます。
脱落した土佐藩の出身者は、板垣退助のように自由民権運動において活躍、政府批判を強めることになります。
「薩長」の薩摩ですら、征韓論や西南戦争、「開拓使官有物払下げ事件」によって打撃を受けます。
「開拓使官有物払下げ事件」から始まる「明治十四年の政変」によって、佐賀藩の俊英・大隈重信も政界を追われ、教育者としての道に活路を見いだすこととなります。
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明治の政局というのは、正しい者や実力のある者ではなく、策謀や根回しに長けた勢力が生き残ったという部分があることも見誤ってはいけないでしょう。
「薩長土肥」のうち、「肥」が目立たないのはなぜか?
それは、藩閥政治から不当なまでに弾き出されてしまったから。
そういう一面もあるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
杉谷昭『江藤新平 (人物叢書)』(→amazon)
『国史大辞典』