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【斎藤一】
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明治以降 剣はサッパリ捨てた
斎藤の流派がよくわからない理由として、左利き説がありました。
が、これは、現在は否定。
警視庁時代の撃剣等級は四級で、劇剣世話掛でもありません。
警視庁でも、新選組時代の噂は流れ、試合に出たことはあったのですが、腕前を見せ付けるようなことには熱心でなかったようです。
明治以降も、剣の道に生きた永倉新八とは対照的です。
スポーツマンシップで剣をふるっていた永倉と、あくまで剣すら目的のための手段でなかった斎藤。そんなところかもしれません。
我が子への指導も、いかにして死なずに生き延びるかという、実践的なものであったそうです。
永倉ですら斎藤とはあまり会話していないため、流派の判別ができなかったと語っているのですから、これまた驚かされます。
出生も若年期も、流派すら謎。
そして最近まで、容貌すら謎だった……どこまでもミステリアス。
それが斎藤一なのです。
現代の漫画、アニメ、ゲームでは、斎藤のこうしたミステリアスさがプラスに働くこともあるようです。
近藤勇や土方歳三、それに永倉新八と比較すると、霧に包まれているため自由に動かすことができます。
そうしたことも、彼の人気を後押ししているのでしょう。
スパイとしての斎藤一
斎藤の活躍として目立つのは、剣士よりもむしろ間者としての働きも大きい。
最大の活躍ともいえるものが、伊東甲子太郎率いる御陵衛士への潜入です。
慶応3年(1867年)、正月早々、斎藤は永倉新八と共に伊東の誘いを受け、島原・角屋で酒宴にふけりました。
前年から伊東は御陵衛士を結成しており、新選組幹部でありかつ最強剣士である永倉と斎藤を、勧誘しようとしたわけです。
このことがキッカケで、二人は謹慎処分を受けております。
永倉は裏表のない性格であり、近藤ともしばしば対立し、土方が宥めることがよくありました。
彼の場合は、近藤への反発があったのかもしれません。
一方で、斎藤はどうでしょうか。
一度脱退するも復帰後、御陵衛士となった阿部十郎は、明治になってから、このときの斎藤をこう語っています。
「金を持ち逃げした、女にのろい奴」
斎藤は、国家も勤王のこともわからない、剣術ができるだけの奴。
しかも女にだらしがない。
御陵衛士の本拠地は、自分が馴染みの女との行き来に楽だから加入した。
挙げ句の果てに、伊東の50両を持ち逃げし、女遊びに使ってしまった。
そのせいで、近藤の側にやむなく戻っただけ。
斎藤は何か思うところもなく、自分が遊んでいる女の側にいたいから、所属先をふらふらしていただけだ――。
と証言しているのです。
果たして、そうなのでしょうか?
これは斎藤のフェイクであったと見たほうが妥当。
斎藤はまんまと阿部を明治まで騙しきったことになります。裏表のない阿部は、コロリと騙されてしまったのでしょう。
斎藤は無口でストイックな性格だったと思われます。
人となりがはっきりしにくいのは、そうした性格のせいのようで、だからこそスパイ向きと思えるのです。
斎藤は、同年11月まで仲間とみなされたまま、御陵衛士におりました。
そしてひそかに脱出すると、近藤暗殺計画を新選組側に報告。
11月18日、伊東は近藤の接待を受けた帰り道、大石鍬二郎らによって殺害されました。
囮にされたその遺骸を引き取りに来た御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助も殺害されています(「油小路事件」)。
実はこのとき、御陵衛士を襲撃した新選組隊士の中に、斎藤の名もありました。
前述の通り、阿部十郎は「明治になってまで斎藤はふらふらしていただけ」と証言しているわけです。
見事にスパイの役割を果たしていたからこそ、と言えるのではないでしょうか。
天満屋事件であわや!の一幕
慶応3年末といえば、坂本龍馬が暗殺された時期でもあります。
このことに怒った土佐藩士は、龍馬の暗殺犯人を血眼になって捜しておりました。
現在はその犯人は確定しておりますが、当時は藪の中。
新選組の原田左之助ともされておりました。
※坂本龍馬の暗殺犯……黒幕は会津藩主・松平容保で、実行犯は京都見廻組(襲撃犯については今井信郎や佐々木只三郎の説あり)
そんな中、陸奥宗光は佐幕論者の紀州藩士・三浦休太郎が犯人であると確信し、付け狙うようになります。
結果的には陸奥の誤認です。
が、そう思うのも無理はなく、紀州藩と坂本龍馬の間には「いろは丸事件」による遺恨がありました。
かくして海援隊士・陸援隊士から命を狙われた三浦。
その命を守るため、紀州藩は会津藩経由で新選組に護衛を依頼したのです。
新選組というと、暗殺者集団のような印象を抱かれます。
しかし、そもそもは治安の悪化した京都警護を目的とした集団。
当時は、佐幕派も倒幕派も、殺伐として互いに殺し合っていたことを忘れてはなりません。
そんなある日。
斎藤ら新撰組隊士七名を護衛につけ、三浦は天満屋二階で酒宴を開きます。
このとき、斎藤は襲撃に備えて鎖帷子を着用しておりました。
しかし酔いが進むと、鎖帷子の手の甲が邪魔になってきます。
なんとか外せないか。と斎藤が苦戦しているところに、闖入者が現れました。
刺客でした。
「三浦か!」
連中は、そう言うなり襲いかかってて、三浦は顔面を切られてしまいます。
蝋燭も切り倒され、暗中での死闘が始まりました。
そして斎藤すら刺客に後ろから抱きつかれて危ういところ、新選組隊士の梅戸勝乃進が負傷しながら斎藤を救い、一命を取り留めます。
このとき、永倉、原田ら別働隊が応援に駆けつけようとしたものの、これまた刺客らと斬り合いになり、到着できません。
結果、紀州藩士が死者三名を出しながら、三浦は顔面負傷のみで助かりました。
幕末らしい死闘の夜。
斎藤すら死を覚悟したほどの事件でした。
※三浦は明治以降、三浦安と名前を変え、東京府知事まで務めております。
鳥羽・伏見の戦い
1867年、冬。
時代はまだまだ激しく動きます。
12月9日、王政復古――徳川慶喜、松平容保、松平定敬は大坂へ向かいます。
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12月18日、近藤勇は御陵衛士から狙撃を受け負傷、大坂に退きます。
そのため、土方が指揮を執ることになりました。
そして新選組が籠もった伏見奉行所が襲撃に遭いました。
京都の屋内や路上での戦いには強い新選組ですが、本格的な戦闘となると、いかんせん不利は否めません。
ここから先は苦戦が続きます。
慶応3年が明けると、もはや引き返せない方向へと歴史は突き進んでゆきます。
会津藩内でも、山本覚馬らは戦争回避を模索しておりましたが、そんな動きを探っていた赤松小三郎、坂本龍馬らが殺害され、戦争への道は不可避となっていくのです。
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慶応4年(1868年)。
このころから山口二郎と名乗るようになりましたが、本稿は斎藤一で統一します。
この年明け、斎藤は、伏見奉行所で150名の隊士と共に迎えました。
敵方には【錦の御旗】がひるがえり、賊軍とされた新選組は淀や大坂で戦い抜こうとします。
大坂から戦艦で江戸を目指す新選組。
しかし、江戸無血開城を計画していた勝海舟にとって、彼らは邪魔者でしかありません。
勝は以前から新選組を煙たがっておりました。
そこで勝は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」という名目で新選組を江戸から追い払い、彼等は【甲州勝沼の戦い】で大敗北を喫し、そのまま分裂してしまうのです。
哀しき甲州勝沼の戦い「甲陽鎮撫隊」となった新選組がついに解散へ
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永倉と原田は、ここで近藤らと袂を分かちます。
さらに近藤は、土方の制止をふりきって捕縛され、板橋で斬首されてしまいました。
斎藤は、近藤と土方の別れの前に、別行動を取っています。
永倉らとも袂を分かち、負傷していない隊士20数名と一緒に、江戸ではなく会津へと向かっていたのでした。
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