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【斎藤一】
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山口二郎隊長、北へと奮戦す
閏4月5日、会津藩主・松平喜徳(※徳川慶喜の弟)により、斎藤は新選組隊長に任命されております。
喜徳の義父である松平容保は、恭順の意を示すために隠居済み。
そして土方とも行動を別にするようになり、新選組隊長の座は斎藤にめぐってきたということになります。
土方は宇都宮での負傷後会津に立ち寄り、湯治も行ってはおりますが、さらに死に場所を求めるかのように箱館戦争まで転戦します。
近藤死後の新選組は、土方と共にあり、そして函館で終焉を迎えたと考えられがちです。しかし、会津藩の預かる組織としては、斎藤の指揮下の元、会津で終焉を迎えたとも言えるのです。
そう考えると、明治以降の斎藤の生き方や会津とのつながりも理解しやすくなります。
閏月四月下旬、新選組は、それまでの剣としての装備ではなく、銃器で武装して白河口での戦闘に参加しました。
斎藤は実戦経験に基づいた献策をするものの、西郷頼母は受け入れることはありません。
一族自刃の悲劇で知られる西郷頼母は、実戦経験に乏しく融通の利かない者であり、指揮官としては能力が高かったとは到底言えない器でした。
同じく会津藩家老であった山川大蔵(のちの山川浩)とは異なります。
奥羽への玄関口とされる白河口の指揮官に、西郷頼母がいたということは大きなミスでした。
白河は陥落し奪還はできない状況。
西軍が平潟に上陸を果たし、棚倉城も陥落します。
秋風が吹き始めるころには、会津へと撤退するほかありませんでした。
奥羽の宿場町では、放火や殺人も発生しています。
こうした行為に、新選組が一切関わらなかったとは、状況的に断言できません。
奥羽は戦乱の中へと落ちてゆきました。
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斎藤も、ともかく会津まで逃れるだけで必死でした。
会津戦争へ向かってゆく中、猪苗代の陥落は東軍の予想をはるかに上回るものだったのです。
この背景には、会津藩の命令系統の混乱もあります。
母成峠と猪苗代の陥落は、会津藩の指揮系統のつたなさも一因であったのです。
そして西軍は、母成峠を乗り越えて会津城下になだれ込みます。
会津藩は猪苗代湖の十六橋破壊による足止めを狙うものの、これすら失敗。
急を告げる鐘が鳴り響く中、会津若松城下の人々は混乱に陥りました。
白虎隊の悲劇は、こうした中で起こったものでした。
猪苗代から会津若松へ向かう滝沢峠での戦闘後、飯盛山へと撤退する最中、あの悲劇が起こったのです。
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如来堂でも生きていた!
こうした最中、会津にたどりついた東軍の間でも、意見が別れます。
土方は二本松城陥落後、海路に面している仙台への転戦を考えるようになります。
伝習隊を率いる大鳥圭介も同じ、彼らは函館へと転戦することになります。
一方で斎藤は、会津で戦い抜くことを考えていました。
彼らは塩川(現在の喜多方市)で袂を分かちます。新選組幹部の多くも、ここで斎藤と別れております。
斎藤らが率いる新選組は、神指城如来堂に籠もりました。
神指城とは、かつて直江兼続が徳川家康を迎え撃つべく、建てようと考えていたものの実現しなかった城跡です。
現在はただの平原ですが、幕末期には遺構が若干は残されておりました(会津若松観光ナビ)。
それを頼りに、斎藤らは籠城を決意したわけです。
人数は20名ほど。
そんな少数ながら、会津若松城を目指す西軍に攻撃を仕掛けたらしいことはわかっております。
残念ながら、詳細な情報はあまりに残っていません。
今わかっていること。
それは多勢に無勢であり、新選組はあえなく全滅した……と考えられていたことです。
新選組隊士であった中島登の描いた斎藤の肖像画でも、如来堂で死亡した扱いとなっております。
味方すら結果的に欺いたほどの戦場から、斎藤は生還したのです。
しかし、この会津戦争での斎藤もよくわかりません。
如来堂で戦死したと長年考えられており、結局どこで何をしていたのか不明。
ハッキリするのは、謹慎所に姿を見せてからなのです。
会津藩領でゲリラ活動をしていたのでは?とされています。
生きていたあの男、斗南藩士に
新選組隊長にまでなった山口二郎、如来堂にて散る――。
中島登はじめ、味方まで信じたその死。
しかし、彼は生きておりました。
謹慎地すらわかりません。
一瀬伝八という変名で高田にいたとされたこともありますが、これは斎藤ではないとの見方が現在では有力。
はっきりとその消息が確定するのは、斗南藩でその消息が見つかってからの話です。
新政府軍に恨まれ、叩き潰された会津藩士たち。
明治期に迫られた道は、いくつかあります。
・会津での帰農
→町野主水、酒井峰治等
しかし、これも三島通庸に利用されるようなこともありまして……ラクな道ではありませんでした。
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・蝦夷地で開拓
→『マッサン』の森野熊虎父のルートです
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・東京その他の土地へ
→秋月悌次郎、広沢安任等
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・斗南藩へ
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この斗南藩ですが、比較的上級藩士が向かったルートであり、ここに斎藤が入ることからしてそれなりの期待感や厚遇を感じます。
結果的には大変なこととなるのですが、たどりつくまではそんなこともわからなかったわけです。
斎藤は、会津藩士となったとは言えません。
しかし、斗南藩士としては迎えられた。
結果的に言いますと、斗南藩での生活は大失敗に終わります。
・前提条件に無理がある
・地元住民と移住者間の軋轢、統治に反発する一揆も発生している
・会津藩士、あまりに商売感覚がない
・会津藩士、農業感覚もなかった……
廃藩置県により、斗南藩の生活は終わりました。
地元に残留した者もおりますが、斎藤はじめ中には東京を目指す者も……。
斎藤は、ここで藤田五郎として生きることとなるのです。
斗南藩士としての日々は、苦しいだけのものではありませんでした。
この時代、斎藤は篠田やそという、会津藩出身の女性と結婚したとされます。ただ、上京時に残してきたようで、やそはのちに、倉沢平治右衛門という人物の家に住み込んでおります。
おそらくや離縁したのでしょう。
藤田五郎巡査
東京で、斎藤は妻を娶りました。
彼女の名は高木時尾。
松平容保の義姉かつ会津藩の姫君として慕われた「照姫」の祐筆であった才女です。父は三百石という上級藩士の出身でした。
会津戦争では、夜襲へと向かう山本八重の断髪をしており、『八重の桜』では、貫地谷しほりさんが演じました。
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斎藤と時尾の夫妻の姿は、『八重の桜』でも登場しております。
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弟・高木盛之輔は、軍人や教育者として、明治時代に名を残しております。
義兄の斎藤とも交流があったことでしょう。
この結婚は、まるで会津藩をあげて祝うかのようでした。
上仲人が松平容保、下仲人が佐川官兵衛と山川浩であったのです。
このように、斎藤と旧会津藩の人々との交流は、東京に移ってからも続いております。
佐川のみならず、山川浩・健次郎兄弟も飲み友達。
酒が好きな彼らと飲んでは昔話に耽る。明治の世で賊軍と指をさされていた彼らではありましたが、そこには友情があったのです。
山川浩は、斎藤の長男・勉の名付け親でもあります。
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そんな生活でも、なんとかして糧を見つけねばなりません。
ここに渡りに船とばかりに、会津藩士をスカウトしている人物がおりました。
日本に警察組織を導入した、川路利良です。
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2019年大河ドラマ『いだてん』で、巡査をしていた元旗本・美濃部戍行が、槍を片手に息子の美濃部孝蔵を追い回し、視聴者の度肝を抜きました。
そういう時代です。
川路は、武士の武芸こそ逮捕に役立つと、士族を積極的に登用したのです。
真剣で斬り合える巡査がウロウロしている、明治時代。怖いですねえ……。
斎藤一の人気を高めた『るろうに剣心』での彼は、
この藤田五郎時代の姿です。
週刊モーニングに連載中の『警視庁草紙‐風太郎明治劇場‐』(原作:山田風太郎、監修:後藤一信、画:東直輝)にも、藤田五郎巡査が出てきます。
彼の同僚には、坂本龍馬の暗殺犯説もある今井信郎巡査が登場。
明治初期の混沌とした警視庁の姿が描かれています。
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