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【斎藤一】
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薩摩芋を斬る! 西南戦争へ
明治10年(1877年)、西南戦争――それは会津ゆかりの人々が待ちに待った瞬間でした。
このとき川路利良は、警視庁からの巡査派遣を決定。
わざわざ全国から徴募するほどの気合の入れようです。
斎藤も、このことが決まると、警視庁同僚の佐川官兵衛に興奮気味で語りかけて来たのですから、いかに期待していたのかわかろうというもの。
警部補となった斎藤は、二番隊長の一員として出発します。
豊後口へ向かい、熊本へと転戦。
藤田は、会津戦争での山本八重、戊辰戦争での庄内藩が用いたスペンサー銃も装備していました。
大分県高床山付近で、斎藤は右肋骨あたりに負傷し、陸軍出張病院に入院しております。
戦後、勲七等青色桐葉章と賞金100円を受け取っております。活躍を果たしたのでしょう。
このとき、斎藤と親しかった佐川官兵衛は戦死を遂げました。
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守衛としての晩年
斎藤は、明治21年(1888年)まで警察官として生き、退職しました。
明治以降の歩みは、勤め人として淡々としているかもしれません。
永倉のように、仲間の慰霊や新聞記者の取材に応じることはなく、それでも山川兄弟のような親しい人物には過去の経験を語ったようです。
その口の重さが、彼のミステリアスなイメージを増幅しております。
そんな斎藤の会津人脈が、新たな就職先につながります。
東京高等師範学校の校長・高嶺秀夫は、会津藩士でした。『いだてん』でも中心にいる同校は、実は会津の人脈と深い関わりがあるのです。
山川浩も校長を務めております。
柔道でも知られる嘉納治五郎(同じく校長)は、会津藩家老・西郷頼母の養子である西郷四郎の師匠でもありました。
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そんな会津人脈を頼って、斎藤にも声が掛かります。
明治27年(1894年)から明治31年(1898年)まで。
東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館史跡・湯島聖堂)の看守(守衛長)を勤めたのです。何気に、ここでは剣術も指南したとか。
嘉納治五郎が柔道、斎藤一が剣術。
東京高等師範学校の指導者、スゴすぎます。
明治32年(1899年)から明治42年(1909年)にかけては、東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務。
登下校時は人力車の交通整理もしたそうです。
特に頼まれなくても進んで誘導していたそうですから、なんとも親切ではありませんか。
人力車を引く車夫となれば気の荒い青年も多かったでしょうから、うってつけの役目とも言えます。
会計ということは、算盤をパチパチとはじいていたことにもなります。
この学校間の異動は高嶺と一致します。
彼のあとを慕ったのでしょう。
仏間で結跏趺坐したまま大往生
新選組の最強剣士だけに、その後もさぞや恐ろしい話があるのかな?と思ってしまいますよね。
永倉の場合、晩年でもチンピラを軽々と倒したなんて伝わっております。
しかし、斎藤はどうもそういう話はありません。
周囲が彼の過去を知り、勝手にあれは怖い、恐ろしい目だと感じていただけ。
トラブルとは無縁の、よい人だったのでしょう。
彼の勤務態度は「格別勉励」で、とても真面目だったとのことです。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため、東京の自宅で死去。
享年72。
その死を悟り、仏間で結跏趺坐(けっかふざ)したままでの大往生でした。
墓は、福島県会津若松市の阿弥陀寺にあります(会津若松観光ナビ→link)。
この境内には、取り壊された鶴ヶ城の遺構が移築され、会津戦争の死者が埋葬されています。
戦い抜いた会津の人々と眠りたい――生前から山川浩らに語っていた斎藤の願いが叶えられたのです。
阿弥陀寺では、毎年秋に慰霊祭が行われております。
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なお、同年には、永倉新八も死去。
新選組隊士の生き残りは、明治を生き抜き、大正時代にかけて静かに去っていったのでした。
斎藤の魂は、その墓と写真の寄贈された福島県立博物館がある、会津に今もあるのです。
★
この記事を読んで、
「結局、斎藤一ってわからないことだらけじゃないか!」
と思われた方も多いでしょう。
そうなのです。
永倉新八のように、積極的に語っているわけでもない。
書状も限定的。
写真すら、つい最近までなかったほどです。あれほど鮮明なものが複数あったにも関わらず、なかったとされた。
おそらくや生前の彼の性格が影響しているのでしょう。
意図的に隠したわけではなく、よほど気を許さなければ、あまり語らないタイプであったようです。
子孫によれば、斎藤は話す前に吟味して、やっとしぼり出すタイプだったとか。
ただし、明治以降の会津人脈となると、親しげな姿を見せております。
斗南藩士として受け入れられ、結婚にせよ就職にせよ、親身になって自分に寄り添ってくれたという恩義があったのかもしれません。
会津の人々に対しては、心を開いている様子がうかがえます。
『るろうに剣心』をはじめとするフィクションで描かれる斎藤は、シャープでミステリアスな像です。
しかし、実像はもっとシャイで慎重な姿がうかがえます。
根が真面目であったからこそ、守衛として極めて真面目につとめあげたのでしょう。
シャイでありすぎたために、ミステリアスにされてしまった斎藤一。
そんな像も魅力的じゃありませんか――。
生真面目で、ともすれば融通の利かない会津藩士たち、その膝下に斎藤の墓があるのも、なんとなく納得できます。
シャイでミステリアスな斎藤を迎え入れた土地で、彼とその家族は今も眠っています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
三十一人会『斎藤一〜新選組論集』(→amazon)
新人物往来社『新選組・斎藤一のすべて』(→amazon)
赤間倭子『新選組・斎藤一の謎』(→amazon)
古賀茂・鈴木亨『「新撰組」全隊士録』(→amazon)
山本竜也『新選組証言録』(→amazon)
松浦玲『新選組』(→amazon)
『国史大辞典』