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【鳥羽・伏見の戦い】
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慶喜の建前と本音
ではなぜ慶喜は【大政奉還】に応じたのか?
前提として考えたいのは、後年の慶喜の証言、およびそれを元にした渋沢栄一作の『徳川慶喜公伝』は「安易に鵜呑みにしてはいけない」ということです。
慶喜はしおらしく、こう語っています。
「東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を舞るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり」(『昔夢会筆記』第一)
果たして本当でしょうか。当時の慶喜の言動から見ていくと、くだけた言い方ですが、次のような本音が見えてきます。
「朝廷に政権を返すとは言ったが、政治に参画しないとは言っていない」
というのも以下のような状況が揃っていたからです。
・幕府のあとがどうなるか、この時点ではわからない
・徳川幕府には武力、人材が残されている
・慶喜には【参預会議】のような合議政治の経験もあり、フランスからも学んでいた
幕政から諸侯による合議政治にうつるのであれば、慶喜は国政に口を挟めます。慶喜が得意とする「弁舌」では、彼に勝てる者もいない。
ゆえに、これから先も政治に関わる気が満々とみなされてもおかしくはなかったのです。
大政奉還によって倒幕はできたようで、実は完成されていない。
となれば倒幕サイドはどんな手を打つか?
彼らは奇策を打ち出しました。
【倒幕の密勅】
【薩摩御用盗】
【王政復古】
疑惑と陰謀にまみれた「討幕の密勅」薩長が慶喜を排除して幕府を潰すためだった?
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最後は西郷に見捨てられた 相楽総三と赤報隊は時代に散った徒花なのか
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大政奉還後の政治体制として、【王政復古】の大号令を出し、慶喜抜きの【小御所会議】を開いたのです。
ターニングポイントでした。
山内容堂が慶喜の参加を主張し、幼い明治天皇を好き放題するつもりではないか?と反論するも、岩倉具視が言葉尻をとらえて反撃。慶喜を排除した政治体制が構築されてゆく。
しかし慶喜も諦めたわけではありません。
幕府にはまだ兵力がある。数でも勝るし、フランス製元込め式シャスポー銃もある。
二条城を出て、慶喜は大阪へと向かいました。
このとき、会津藩でも血の気が多く、薩摩に敵意をたぎらせる佐川官兵衛と林権助に、慶喜はこう言ったとされます。
「私には策がある。しかし内密にことを進めねばならん。まだ今は言えぬ……」
ハッタリだったとも思えない発言です。
天下の名城に立て篭もることはできる。京都でも土佐藩の山内容堂らが慶喜排除に異議を唱えている。
なにしろ慶喜には抜群のカリスマがあった。
天下はどう転ぶか?
まだまだわからない慶応3年末でした。
【討薩の表】――薩摩を討つべし!
そんな年末の大坂城にて。
江戸で暴れまわる薩摩藩暴虐の報告が次々に届けられました。煮えたぎる湯のように事態は沸騰します。
このあと、慶喜はどうしたらいいのかわからず困惑するばかりだった……というようなことを言い残しており、それを踏襲する記述もありますが、信じてよいとは思えません。
慶喜はこのとき「いかに幕臣が使い物にならなかったのか」という逸話を伝えています。
こんな話です。
幕臣がこんな調子では私が頑張っても勝てない――そう言いたげでな話でありますが、彼の回想だけでなく、他の事績を探っていくと、慶喜は達観どころか何か策を弄していました。
慶喜名義の【討薩の表】という証拠があります。
薩摩藩の奸臣どもが極悪非道の振る舞いをしている。その悪党どもの引き渡しを求める。朝廷が応じなければ誅戮してでもひっとらえる!
そう激しい言葉で煽っているのです。
後になって慶喜は「そんなことあったような……」とシラを切っていますが、到底信じられるものではありません。
そもそも、慶喜がどう言い訳しようとも、煮えたぎった油のような主戦派からすれば、首につけた鎖から放されたようなものでしょう。
戦争は刻一刻と近づいてゆきます。
そして正月4日、慶喜は大坂城を出て、軍を率いて京を目指すこととなります。
圧倒的な大軍でパレードをして、京に乗り込むはずでした。
まさかの大敗【錦旗】という大義
この年の正月、西郷と大久保は目の前の大魚を逃さぬよう、入念な準備をしていました。
なんとしても慶喜を叩き潰さねばならない。数では劣るとはいえ、士気では大幅に勝るようにすべし――。
兵数を見てみれば、自軍5千に対し、敵の幕府は1万5千でした。三倍もの開きがあるし、会津藩や桑名藩は強い。それでもやらねばならぬ。
そう決意を固め、薩摩兵たちは鳥羽街道へ向かいました。
慶喜が出立する予定前日の3日――。
薩摩藩兵が待ち受ける鳥羽街道の小枝橋に、幕府の歩兵隊がさしかかりました。薩摩藩士たちは手筈通りに強硬策へ。
話し合いは途中で打ち切って、討つべし!
このとき兵数で勝る幕府軍は、士気や練兵度にばらつきがありました。意気軒高な会津藩や桑名藩はまだしも、そうでない者も多かった。
はなから戦うつもりであった薩摩兵に対し、対する幕府の歩兵隊は装弾すらしていない有様。
一方的に討ち果たされ、緒戦で大敗してしまいます。
その報告が大坂城に届いたことを、慶喜本人は後からこう振り返っています。
「それでもまだ薩摩を討つと言い張る愚かな連中がいて呆れた」
そんなニュアンスで語り伝えていますが、慶喜の小姓は、彼が愕然としていたことを覚えていました。
慶喜は【討薩の表】なんて出していないと言い出していたけれど、激怒していたわけではない。本当に幕臣が暴走して薩摩と戦をしたのであれば、もっと怒ってもよい。しかし、慶喜はむしろ唖然としていた。
こうした証言の食い違いからは、むしろ慶喜自身が【討薩】の意思をキャンセルしたがった本音が見えてきます。
そのころ京都では西郷と大久保が大喜びをしていました。
開戦当初は暗い空気が満ちた御所も、むしろ浮かれ騒ぎ始めるほど。
空気が変わってゆきます。
4日――風の強い朝でした。当初の予定であれば、慶喜出馬の日です。
前線に立つ幕府兵と会津兵は士気が高く、薩摩兵も舌を巻くほどの勇敢さを見せつけます。
戦局の風は幕府が引き戻しつつありました。しかし……。
5日――突如として戦場に【錦旗】が翻りました。
この旗に刃向かうものは【朝敵】である!
として新政府軍が用意したものですが、これに対して幕府側が恐れ慄いたかどうか?というと怪しいものです。
なんせ錦旗の実物がどういうものか不明。記録すらろくに残っていない。買ってきた布を即席で作り上げたもので、インスタントな旗であったことも指摘されています。
確かに、戦闘の経過を見ていて淀藩のように寝返る者も出てきましたが、幕府の圧倒的有利に変わりはありません。
そのままであれば、戦局に変化はなかったでしょう。
しかし……。
インスタント御旗が効果テキメンな人物がいました。
大坂城の徳川慶喜です。
朝敵だと脅され「もう駄目だ……」と焦ります。
母方の血統、水戸学といった背景から、慶喜の朝廷に対する思いの大きさはよく知られるところです。
のみならず、ここは彼自身の悪癖ともいえる性格が発露していました。
会津藩の山川浩や幕臣は、彼のことを苦々しく振り返っています。
調子はいいくせに、すぐに怯える。いざとなるとヘナヘナとして逃げ出す。
そんな性格の人間が、戦場から逃げ出しても言い訳に使えるもの(=御旗)を認識してしまった。となればどうなるか?
慶喜は行動を起こします。謡曲で鍛えた弁舌をふるい、松平容保はじめ味方にこう檄を飛ばしたのです。
「もはやことは決戦である。たとえ千騎が一騎になろうと、退くな! 奮発して全力で戦うのだ! 斃れても大坂がある。江戸がある。水戸がある。最後まで戦おう!」
「今日こうなったのは、不届な奸臣(薩摩の島津)のせいだ。これを排除せぬかぎりは天下は安定せぬ! 不幸にも敗れ危機に瀕しているが、必ず天は見ていてくださる! 大坂城が焼け落ちようが死守するぞ、ここで私が斃れようと、江戸には忠臣がいて仇討ちをするはずだ。思い残すことなぞない、皆、存分に戦ってくれ!」
この名演説を聞き、感動のあまり涙する者もおりました。
言葉通りであれば、確かに感動的であったことでしょう。しかし……。
その翌日6日、慶喜は、江戸へ逃げました。
慶喜は尊皇思想が第一であり、幕府に未練も何もなかったという擁護論もあります。
それがたとえ本心であったにせよ、こんな大演説でアジテーションを飛ばし、本人は逃げる――将軍どころではなく、人としても最悪の行動でした。
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