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【鳥羽・伏見の戦い】
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将軍の敵前逃亡
このあと会津藩士・神保修理長輝との会話で、こんなことを相手が言い出したと言います。
「こうなってはもはや仕方ありませぬ。江戸に戻り、体制を立て直すしか……」
慶喜は後年「この説を利用して江戸に帰る」ことを思いついたと振り返ることとなります。
神保の運命は悲惨でした。
慶喜が神保の言い分を利用したため、責任を問われ、切腹にまで追い詰めらたのです。残された彼の妻・雪子は会津戦争で娘子軍として戦い捕縛され、自害を遂げました。
そして慶喜は、腹心にすら告げることなく大坂城から姿を消しました。
逃亡することに抵抗する松平容保と松平定敬を強引に連れ、戦場から離れたのです。
ギリギリになってこのことを告げられた容保は涙をこらえつつ、説得しようとします。しかし弁舌でかなうわけもない。ついには慶喜は苛立ち、脅します。
「ええい、主命であるぞ!」
こう言われたら、会津藩主として断れません。
これを知った会津藩士は嘆き、なんとしても容保を止めようとしました。
「我らは苦戦し負傷者も多い。それなのに見捨てて殿が江戸に戻れば、不義となる! このあと、どんな顔をして将士に見えることができますか!」
しかし、慶喜は会おうとすらしませんでした。
開陽丸で逃げる中、容保は慶喜に問いかけます。
「あんなに戦えと命じておきながら、どうしておめおめと逃げるのでしょうか?」
「ああでも言わないと戦えとうるさい連中がいるだろう、ま、方便だ」
本音と建前を使い分けることは、慶喜の特技でした。
艦内で容保は子どもの声が慶喜のいる船室から聞こえることに気づきます。
子どもではなく、愛妾のお芳の声でした。よりにもよって女連れで逃げるとは……女を斬り捨てろと怒る者もいれば、何も言えなくなる者もいる。あまりに無惨な逃走でした。
逃げることしか考えていなかった慶喜は、家康以来の馬印すら置き去りにしました。
これはお芳の父である火消しの親分・新門辰五郎が守り抜き、江戸まで持ち帰っています。
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かくして徳川武士の誇りは、最後の将軍の無様な逃亡で消えてゆきました。
慶喜と同行した容保のことを卑劣だという評価はありません。その理由は?
第一に誠意でしょう。容保はああだこうだと言い訳をするようなことはありません。
むしろ罪は己にあると認め、追悼の意を示し続ける明治の世を生きました。容保の人柄については、多くの会津の人々が語り残しています。
「あんなにいい人はいない」
こんな殿様を責めてどうする?
そんな意見で会津は一致していたのです。慶喜とは違いますし、そもそも容保は己の意志で逃げたのではなく、慶喜に拉致されたも同然でした。
大坂城から、江戸城へ
天下の名城・大坂城。言わずもがな防御力も凄まじければ、食糧も十分にあります。
籠城すればなんとかなったのではないか?
幕府の海軍は圧倒的に強く、援護もできる。兵だって1万は残っている。
それでも慶喜に見放され、残された幕臣たちは、どうにもならないと呆れ果てるばかりです。精神力がへし折れ、ほうほうの体で逃げるしかありません。
逃げ帰った慶喜も、江戸城では冷たい来訪を受けます。
幕臣も江戸っ子も呆れるばかり。
冷や飯を食わされていた勝海舟が呼ばれていくと、慶喜はすっかり小さくなっていました。
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さすがの勝も呆れ果てつつも同情し、彼なりの智勇を尽くして【江戸城無血開城】で将軍の首を守ることとなります。
しかし、振り上げた拳はおろせません。
江戸を焼かなかった戦火は、東日本へと広がってゆき、会津や函館まで屍山血河を築き上げてゆくのです。
明治初年の時点では『徳川慶喜公伝』を世に出した渋沢栄一ですら、慶喜と会話してもはぐらかすばかりで、行動が理解できなかったと回想しているほどです。
ではなぜ、後年になって慶喜の心を理解したとして『徳川慶喜公伝』はじめ書物で表明したのか?
そのことを最後に考えてみましょう。
慶喜を許してなるか! 会津の激怒
『徳川慶喜公伝』における慶喜の言い分はこうなります。
「私は朝廷には向かうつもりなんてなかったのです!
それなのに朝敵認定されるなんて……嗚呼、こんなことならば家臣に刺されようと、命をかけてでも、会津藩と桑名藩を帰国させるべきだった、それならこんなことにならなかった!
私のいうことを聞かないから、『ならば勝手にしろ』と言わなければよかった!」
これには会津藩が激怒。
山川健次郎の『会津戊辰戦争史』で次のように反論されています。
「異議あり、無責任にもほどがある!
人間としての真心があればこんなこと言えますか?
将軍でありながら家臣に『勝手にしろ』なんて言いますか?
国家の浮沈がかかっているのに『勝手にしろ』と言い放ったことが事実だとすれば、こんな無責任な話ってないと思いますが!」
いささか長くなりますが、山川健次郎の声を続けましょう。
「だいたい命令って?
会津と桑名に何を命令したんですか?
その中身って何だったのか?
我々はむしろ、あなたの“命令”に従っただけだ!」
「要するに慶喜公はあのとき、断固戦うか、恭順するか、ハッキリしていなかったわけだ。
で、あとから会津と桑名に責任転嫁し始め、しょうもないことを言い始めたわけだ!」
かなり激昂して反論しています。
状況証拠からするに、会津側が正しいとみなされます。
そもそも、本物である【討薩の表】すら、却下されず曖昧なまま慶喜はいなくなってしまった。
却下されない命令に従って、会津は戦い続けたとも解釈できるのです。
会津の悲劇を彼ら自身にありとすることは、ないわけでありません。その筆頭は松平容保であり、すべては己自身にあると口を閉ざし、慰霊する明治を送りました。
そんな容保の態度をいいことに、渋沢栄一という財力を抱き込み、慶喜が言い訳を流布し始めた。
容保ほどおとなしくない会津藩士たちは激怒し、筆でもって反論する。
そんな構図がそこにはあります。
山川健次郎は、歳を偽ってまで白虎隊として会津戦争に従軍し、斗南藩で苦労を重ねました。そんな山川からすれば、将軍だろうと慶喜は許せるはずもなかったのです。
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【鳥羽・伏見の戦い】はなぜ幕府軍が負けたのか?
最後に【鳥羽・伏見の戦い】について、個々の点から振り返ってみたいと思います。
Q:武器の性能に差があったから勝敗を決したのでしょうか?
A:『青天を衝け』では、商才を発揮した薩摩藩らが新式の装備を有していたために勝利したと説明がなされています。
しかし、これは古い研究に基づくものとされます。
商才を発揮したのはイギリスの商人です。南北戦争終結により余った武器で一儲けしたい。そんなグラバーらの思惑に、五代友厚らが乗かったのです。
Q:【錦旗】が決定的だったのでしょうか?
A:慶喜にとってはそうであったかもしれませんが、他の将兵までそうであったかはわかりません。
Q:革命を望む京都の人々は、西軍を歓迎したのでしょうか?
A:彰義隊や会津藩を応援していた江戸っ子とは異なったことでしょう。それでも諸手をあげて感動したとは考えにくいものです。西軍に資金提供し、政治に入り込もうとした三井のような商人がいたことは確かですが。
Q:じゃあ結局何が悪かったのでしょうか?
A:総大将である慶喜でしょう。
数を頼みにして警戒を怠る。出した命令を二転三転させ、将兵を混乱させる。現場放棄して、決定的なまでに士気を低下させる。
命令系統を無茶苦茶にし、士気をここまで落としたのですから、最大の責任者は慶喜でしょう。
「己を知り敵を知れば百戦危うからず」
慶喜はこう『孫子』を引いたとされます。それは皮肉にも、慶喜自身にあてはまると思えるのです。
慶喜は己を知らなかったのか?
知らないふりをしていたのか?
大坂城に残された幕臣たちは「またいつものアレが出たよ」とため息をつきました。
【長州征討】といい、いざとなると慶喜はヘナヘナとして逃げ出す。周囲はそう気づいていたのに、慶喜自身はその己の持つ臆病さに無頓着だったように思えるのです。
敵のことも知らなかったとしか思えない。かつては手を組んでいた薩摩を過小評価していたとしか思えないほど、初手からして迂闊に思えます。
だからこそ幕臣や会津藩士たちは軒並み怒っておりますし、恨みつらみも語り残している。江戸の人々もシラけきっていたのです。
敗軍の将は兵を語らず――当面の間は、この言葉通り、慶喜もおとなしくしておりました。
そこへ渋沢栄一が訪れてきました。
維新前夜に彼のために粉骨砕身した永井尚志や勝海舟には冷淡であったという慶喜ですが、渋沢栄一は歓迎します。
幕政時代はパッとしなかった渋沢栄一ですが、明治の世で出世を遂げ、長州閥の政治家と親しく、金も権力もありました。
そんな元君臣の力を合わせれば、筆による汚名返上はできると踏み、慶喜精一杯の弁解である『徳川慶喜公伝』が世に出たのです。
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しかし、時代の変化とともに歴史の評価も変わります。
第二次世界大戦で日本が敗北し、明治以来の国家が崩壊すると、慶喜の評価にも影がさしこみます。
敗戦の記憶が生々しい世代からすれば、慶喜は度し難いリーダーとして映る。
戦えと言いながら自分だけおめおめと逃げ、保身を図り、あとになって自己正当化を言い出す。そんなリーダーは我慢ならないと厳しい評価をくだしているのです。
★
こうした状況を踏まえ、あらためて考えてみたくなる。
大河ドラマで人の好い俳優が演じているから、史実の徳川慶喜も好人物なのでしょうか。
本人が言い残している言葉だけをベースに振り返ってもよいのでしょうか。
山川健次郎ら会津藩士らの怒りの声は、現代や世間へなかなか届きません。
ドラマをきっかけに一考してみるのもまた歴史の醍醐味のように思えてなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
野口武彦『鳥羽伏見の戦い』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
福島民友新聞社編集局『維新再考 「官軍」の虚と「賊軍」の義』(→amazon)
他