福地源一郎福地桜痴

左は留学生時代、右は晩年の福地源一郎(福地桜痴はペンネーム)/wikipediaより引用

幕末・維新

漱石や諭吉がダメ出し~福地源一郎(桜痴)は渋沢の御用記者だった?

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批判を許さぬ政府の体質

さて、福地はどうしたのか?

杉浦愛蔵らとともに、執筆に励んでおりました。

町人とも交際を広め、しまいには遊ぶようになります。滅びゆく幕府に殉じるわけでもない、そんな生き方です。

江戸城無血開城】のあと『江湖新聞』を刊行。

「江湖」とは「廟堂」と対になる言葉であり、民衆の暮らす世界という意味です。

廟堂の高きに居りては、則ち其の民を憂い、江湖の遠きに処りては、則ち其の君を憂う。

政治の場で出世を遂げても民衆の生活を心配し、在野の民衆たちが暮らす世界にいても為政者のことを心配する。

(北宋・范仲淹「岳陽楼記」より)

福地がこの言葉に込めた意味は?

廟堂にいた慶喜は、民衆の気持ちに寄り添っていないのではないか!

自分は在野の身分になってしまったけれども、だからこそ政治批判ができる!

そんな自負を語ると共に、批判の矛先は新政府へも向けられます。

世直しだ、新しい時代だというけれども、徳川幕府が倒れて、「おはぎとお芋(長州と薩摩)」の連中が成り上がっただけではないか。

これのどこが新しい世だ!

福地自身は函館まで転戦するわけでもなく、慶喜に仕えるわけでもなく、江湖から筆誅を加える。そんな気負いがありました。

しかもこれは福地一個人の見解でもありません。江戸っ子たちも拍手喝采を送りたいような意見だったでしょう。

彼等は明治維新をまるで歓迎しておりません。

無茶苦茶になったと不満だらけであり、それが的を射ているからこそ、政府は目を光らせます。

福地の新聞は発禁処分を受け、逮捕されたのです。

この一件は、明治政府のその後を示すシンボル的な事件と言えるかもしれません。

福地の学んだ西洋では、新聞による政府批判や王室批判が認められておりました。ジョージ4世が崩御した際、新聞の社説では「最低の王だった」と書かれたものです。

幕府の使節団は信憑性に問題があると書き立てたのも、フランスの大手新聞でした。

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福地は、木戸孝允の取りなしもあり、新聞を絶版とすることで釈放。

このあと明治の幕臣らしく主家を追って静岡に向かうも、年内には東京へ戻ってしまいます。

そして士籍を返上し、平民として浅草に住み着くと、戯作執筆に励むのでした。

生活費は英語やフランス語を塾で教えて稼ぐ。

こうして福地の明治元年は暮れてゆくのですが、他の幕臣とは大きく生き方が変わってきています。

福地と比較対象しやすいのが、同じ物書きちとなった栗本鋤雲でしょうか。

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維新後の栗本は、反骨のジャーナリストとして生きることを選びました。

武士としての身分は捨てても、誇りを捨てない――そんな者に対し温かい眼差しを向けるのが栗本のスタンスです。

例えば、会津藩士でありながら江戸で維新を迎えて生き延び、牧畜業に尽くした広沢安任といった人物が、彼の目には好ましく映りました。

そんな栗本とは、福沢諭吉も意気投合します。

一方の福地は?

 


御用記者に転身

福地は、士籍を返上しようとも生きていくことができました。

語学力と文才に恵まれたからで、そんな福地に目をつけたのが渋沢栄一です。

二人の出会いはハッキリしないものの、明治3年(1870年)の冬とされています。

渋沢を介して伊藤博文と意気投合。

大蔵省に入ったかと思ったら、明治4年(1871年)出立の岩倉使節団にも一等書記官として参加し、またも海外の地を踏んでいます。

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そして明治7年(1874年)、人生の一大転機を迎えます。

大蔵省を辞し、ジャーナリストに戻ったのです。

福地は日報社に入り、『東京日日新聞』発行に関わるようになりました。

社説を手がけ、持ち前の才智を駆使して紙面を刷新。こう書くと、非常に優秀な人物のように思えますが、実はこうした行動が嫌われる原因なのです。

この『東京日日新聞』は政府系。

ハッキリ言えば「御用新聞」です。

政府の論調を流すプロパガンダであり、福沢諭吉が明治初期に「御用ジャーナリストがいる」と苦々しく書き残しています。

それが誰のことを指すのか?明言はされてはいませんが、状況からして福地がその第一候補でしょう。

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福地の主張には、

・人文の自由
・非戦主義
・士族より人民を重んずる

といった優れたものもあります。

しかし掲載時期も重要です。

明治政府前半はまだ方針が固まっておらず、こうした主張をしてもお咎めはなかったとも言えます。

ガス抜きとしての役割も果たせるし、政府に近いだけに情報の正確性とスピードは群を抜いてはおりました。

福地は有能ではあったのです。

明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、従軍記者としてスクープを連発。明治ジャーナリズムの最前線にいました。

渋沢との関係も深い。明治11年(1878年)渋沢らと共に東京商法会議所を設立したのです。

明治とは政財官の結びつきが強い時代であり、顔が利く福地が政治を志したとしても、不思議はありません。

実際、この年には府会議員に当選し、翌年には府会議長に就任。なお、このとき副議長に選ばれた福沢諭吉は同職を断りました。

 


天下の双福、明暗を分けた福地と福沢

福地桜痴と、福沢諭吉――元幕臣でありながら、なぜ、ここまで知名度や評価が異なるのでしょうか?

後世のみならず、実は当時から福地には人望がありませんでした。

「あまりに節操がない!」として人々が呆れ返っていたのです。

例えば、西南戦争では政府を称え、明治14年(1881年)に【北海道開拓使官有地払下事件】問題が勃発すると、今度は政府を批判。

にも関わらず、事件の収束後は伊藤博文に迎合するような姿勢を見せます。

政府に対して批判、迎合、批判、迎合……で一体こいつは何なのか?と失望されたのです。

プライベートも問題視されました。

福沢諭吉は明治時代でも潔癖であり、日本人男性の性的倫理のなさを嘆いておりました。

北里柴三郎の才能を見出したものの、その放埒さに激怒していたことでも有名です。福沢の場合、当人が真面目だというだけでなく、あまりに奔放な政財界への怒りもあったことでしょう。

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一方で福地桜痴は?

そもそもが桜痴という号からして「桜路」という馴染みの妓から取っています。桜路相手にメロメロになってしまった。そんな意味です。

現代で例えるなら、有名ジャーナリストがアイドル水着画像の話ばかりをSNSで投下しているようなものでしょうか。

面白くてウケるかもしれないけれども、まず間違いなく批判にさらされます。

当時広まった新聞の、情報伝達速度は江戸時代に比べて画期的でした。

新しいメディアに乗っかり知名度を増していった福地には、怪しげなインフルエンサーとしての顔が見えてくるのです。

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