薩長同盟

左から西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允/wikipediaより引用

幕末・維新

薩長同盟は何のために結ばれた?龍馬が西郷と木戸を繋いだ理由とは?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
薩長同盟
をクリックお願いします。

 


長州藩の事情 その②

今にも幕府軍に攻められそうな長州藩。

両者の軍事力を比較すれば、もう絶体絶命の状況です。

しかし、長州藩も強気です。

高杉晋作が、多くの藩士らの支持を得て、「幕府、来いや!」状態になっていたのです。

高杉晋作
高杉晋作が27歳で夭逝「立てば雷電、動けば台風」の麒麟児は生き急ぐ

続きを見る

というか、未だ強気な長州だからこそ幕府としても見過ごすワケにはいきません。

徹底的に潰しておかなければ将来の禍根となる。その読みは非常に的確なものでした。

ここで注目しておきたいのが長州の窮状です。

散々イキがってはおりますが、武器がない。おまけに味方もいない。

輸入を禁じられていた長州藩は、戦争に必要な外国製の銃を手に入れることもできず、さらには藩として孤立したままの四面楚歌だったのです。

普通だったら今にも心がポッキリ折れそうな状況。

そこで救いの手を差し伸べたのが坂本龍馬中岡慎太郎です。

坂本龍馬
坂本龍馬は幕末当時から英雄扱いされていた? 激動の生涯33年を一気に振り返る

続きを見る

彼らが薩摩と長州の両者に手を組むよう働きかけることにしました。

次に薩摩を見てみましょう。

 


薩摩藩の事情 その①

薩摩藩の事情は、いささか複雑です。

学校の授業ですと「西郷さえ押さえときゃALLオッケー!」みたいな取扱をされますが、事はさほどに単純ではありません。

まず西郷には、藩の方針を最終決定する権利がない。

勝海舟に感化され『内戦やってる場合じゃねー!』と考えていた西郷は、同時に、長州征伐が終われば『次に薩摩が幕府に攻められるのでは?』という危機感を抱いていました。

勝海舟
なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯

続きを見る

むろん西郷も、長州に対して不信感はありますが、だからと言って彼等を潰した後に、幕府の矛先が自分たちへ向けられたらたまったもんじゃありません。

よって理屈的に「薩長同盟はアリ」でした。

問題は……島津久光です。

島津久光
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年

続きを見る

薩摩藩全体の動きを決めるのは、表向きは藩主の島津忠義ながら、実質的にはそのトーチャン・島津久光です。

西郷とは犬猿の仲ですから、何かと息苦しいことこの上なし。

しかし、西郷には強い味方もおりました。

薩摩藩の重臣である小松帯刀桂久武。更には大久保利通(大久保一蔵)らは、久光からの信頼度も高く、西郷の考えを通じ合わせられる仲間です。

桂久武
西郷の親友となった桂久武(赤山靭負の弟)西南戦争には不参戦の予定だったのに

続きを見る

彼らを通してならば、久光の同意も得られる。

あとは島津久光が薩長同盟についてどう考えているか?

あるいは、どうやって薩長同盟を納得させるか?

ここが非常に重要でした。

 


薩摩藩の事情 その②

長州藩が薩摩藩を憎んでいたのは前述の通り。

主に京都でのドタバタで追いやられたからであります。

一方の薩摩側も、1863年、同藩所有の商船・長崎丸が長州藩の砲撃で潰され、薩摩藩士28名が死亡するなど、憎悪の念は並々ならぬものがありました。

当然ながら、島津久光に【薩長同盟】を納得させるのは難しい局面だと思われるでしょう。

しかし、幕府の第二次長州征伐に対して久光は、決して乗り気ではなく、寛大な処置を求めていたとも伝わります。

憎くてタマラナイはずなのに、なぜ?

幕末の政局は、薩摩だけが主役ではなく、他にも有力諸藩がおり、久光としても政治力をキープしたい場面です。

特にこの頃は、朝廷や一橋慶喜、他の有力諸藩との駆け引きが常態化しており、他藩に対して【影響力】を保持しておきたいのが本心。

さらには坂本龍馬らが、薩摩藩重臣たちにも【薩長同盟】の利を説いて回っておりました。

西郷は、久光を納得させるため小松帯刀と共に会談に臨んだという指摘もあります。

小松帯刀は、薩摩藩の家老です。

小松帯刀
小松帯刀(清廉)幕末の薩摩を舵取りした俊英 35年の短すぎる生涯を振り返る

続きを見る

重要な局面で臨時的に藩の方針を判断しても良いお偉いさんであり、久光の信頼も篤い人物でした。しかも西郷とは仲がよく、うってつけのポジションであります。

こうしたことから小松帯刀同席であれば薩長同盟の会談に久光の許可は降りていた。後は実際に会見に挑むだけ。

なのですが、もう一つ、幕府と薩長の事情を見ておきましょう。

 

幕府と薩長の事情

1865年5月。

長州を討つため、プレッシャーをかけるため、江戸から京都へ出発した14代将軍・徳川家茂は、その後、大坂城に到着。

まずは長州藩に向かって重臣らの出頭を命じますが、その都度、病気などを理由に断られ、ダラダラと数ヶ月が経過してしまいます。

徳川家茂
14代将軍・徳川家茂(慶福)は勝海舟にも認められた文武の才の持ち主だった

続きを見る

完全にナメられてました。

この年の9月、幕府としては正式に長州征伐の勅許を得ています。

にもかかわらず、将軍が出陣してこんな体たらくでは、長州以外の他藩からバカにされて当然です。

もちろん幕府側も黙ってはいません。

一橋慶喜が、再び朝廷の威光を利用して諸藩のケツを叩こうとするのですが、今度は大久保利通などの朝廷工作によって邪魔され、いよいよどうにもならなくなってしまいます。

徳川慶喜が将軍になるまで
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期

続きを見る

こうして幕府がドタバタしている間に、薩摩と長州で、同盟に向けての最終会談が始まろうとしておりました。

仲介したのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

彼らの働きによって薩長同盟が成立した――と物語では描かれがちですが、上記のとおり、薩摩にも長州にも手を結んだほうがよい政治的・軍事的理由があって、後はキッカケ一つだったのです。

あらためて、薩摩・長州・幕府、それぞれの事情を確認しておきましょう。

 

長州

・武器もない

・味方もいない

→薩摩と手を組めば両方手に入る

 

薩摩

・内戦を避けたい西郷

・長州征伐の次は薩摩か?

・兵糧米が不足している

→長州と手を組めば不安が解消される

 

幕府

・長州は責任者、出せよ、ゴルァ!

・薩摩なにやってんの!長州攻めるぞ!

→余裕と思っていた第二次長州征伐がうまくいかず焦る

いかがでしょう?
状況だけ考えれば、薩摩と長州が結びつくのは自然の流れとは思いませんか?

しかし同時に、両者の間には、積年の恨みから激しい憎悪の情念が漂っています。

果たして会談なんて、うまくいくのか。

そこでキーマンとなったのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新

×