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【薩長同盟】
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長州藩の事情② そこへ龍馬と慎太郎が
今にも幕府軍に攻められそうな長州藩。
両者の軍事力を比較すれば、もう絶体絶命の状況です。
しかし、長州藩も強気です。
例えば高杉晋作なんかも多くの藩士らの支持を得て、「幕府、来いや!」状態になっていたのです。
というか、未だ強気な長州だからこそ幕府としても見過ごすワケにはいきません。
徹底的に潰しておかなければ将来の禍根となる。その読みは非常に的確なものでした。
ここで注目しておきたいのが長州の窮状です。
散々イキがってはおりますが、武器がない。おまけに味方もいない。
輸入を禁じられていた長州藩は、戦争に必要な外国製の銃を手に入れることもできず、さらには藩として孤立したままの四面楚歌だったのです。
普通だったら今にも心がポッキリ折れそうな状況。
彼らが薩摩と長州の両者に手を組むよう働きかけることにしました。
次に薩摩を見てみましょう。
薩摩藩の事情① 島津久光が問題だ
薩摩藩の事情は、いささか複雑です。
学校の授業ですと「西郷を押さえときゃALLオッケー!」みたいな取扱をされますが、事はさほどに単純ではありません。
まず西郷には、藩の方針を最終決定する権利がない。
勝海舟に感化され『内戦やってる場合じゃねー!』と考えていた西郷は、同時に、長州征伐が終われば『次に薩摩が幕府に攻められるのでは?』という危機感を抱いていました。
むろん西郷も、長州に対して不信感はありますが、だからと言って彼等を潰した後に、幕府の矛先が自分たちへ向けられたらたまったもんじゃありません。
よって理屈的に「薩長同盟はアリ」でした。
問題は……島津久光です。
薩摩藩全体の動きを決めるのは、表向きは藩主の島津忠義ながら、実質的にはそのトーチャン・島津久光です。
西郷とは犬猿の仲ですから、何かと息苦しいことこの上なし。
しかし、西郷には強い味方もおりました。
更には大久保利通(大久保一蔵)らは、久光からの信頼度も高く、西郷の考えを通じ合わせられる仲間です。
彼らを通してならば、久光の同意も得られる。
あとは島津久光が薩長同盟についてどう考えているか?
あるいは、どうやって薩長同盟を納得させるか?
ここが非常に重要でした。
薩摩藩の事情② 帯刀の協力もあり
長州藩が薩摩藩を憎んでいたのは前述の通り。
主に京都でのドタバタで追いやられたからであります。
一方の薩摩側も、1863年、同藩所有の商船・長崎丸が長州藩の砲撃で潰され、薩摩藩士28名が死亡するなど、憎悪の念は並々ならぬものがありました。
当然ながら、島津久光に【薩長同盟】を納得させるのは難しい局面だと思われるでしょう。
しかし、幕府の第二次長州征伐に対して久光は、決して乗り気ではなく、寛大な処置を求めていたとも伝わります。
憎くてタマラナイはずなのに、なぜ?
幕末の政局は、薩摩だけが主役ではなく、他にも有力諸藩がおり、久光としても政治力をキープしたい場面です。
特にこの頃は、朝廷や一橋慶喜、他の有力諸藩との駆け引きが常態化しており、他藩に対して【影響力】を保持しておきたいのが本心。
さらには坂本龍馬らが、薩摩藩重臣たちにも【薩長同盟】の利を説いて回っておりました。
西郷は、久光を納得させるため小松帯刀と共に会談に臨んだという指摘もあります。
小松帯刀は、薩摩藩の家老です。
重要な局面で臨時的に藩の方針を判断しても良いお偉いさんであり、久光の信頼も篤い人物でした。
しかも西郷とは仲がよく、うってつけのポジションであります。
こうしたことから小松帯刀同席であれば薩長同盟の会談に久光の許可は降りていた。後は実際に会見に挑むだけ。
なのですが、もう一つ、幕府と薩長の事情を見ておきましょう。
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