薩長同盟

左から西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允/wikipediaより引用

幕末・維新

薩長同盟は倒幕のために締結されたワケじゃない!龍馬が西郷と木戸を繋いだ理由

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幕府と薩長の事情

1865年5月。

長州を討つため、プレッシャーをかけるため、江戸から京都へ出発した14代将軍・徳川家茂は、その後、大坂城に到着。

徳川家茂/wikipediaより引用

まずは長州藩に向かって重臣らの出頭を命じますが、その都度、病気などを理由に断られ、ダラダラと数ヶ月が経過してしまいます。

完全にナメられてました。

この年の9月、幕府としては正式に長州征伐の勅許を得ています。

にもかかわらず、将軍が出陣してこんな体たらくでは、長州以外の他藩からバカにされて当然です。

もちろん幕府側も黙ってはいません。

一橋慶喜が、再び朝廷の威光を利用して諸藩のケツを叩こうとするのですが、今度は大久保利通などの朝廷工作によって邪魔され、いよいよどうにもならなくなってしまいます。

徳川慶喜/wikipediaより引用

こうして幕府がドタバタしている間に、薩摩と長州で、同盟に向けての最終会談が始まろうとしておりました。

仲介したのが坂本龍馬中岡慎太郎です。

彼らの働きによって薩長同盟が成立した――と物語では描かれがちですが、上記のとおり、薩摩にも長州にも手を結んだほうがよい政治的・軍事的理由があって、後はキッカケ一つだったのです。

あらためて、薩摩・長州・幕府、それぞれの事情を確認しておきましょう。

 

長州

・武器もない

・味方もいない

→薩摩と手を組めば両方手に入る

 

薩摩

・内戦を避けたい西郷

・長州征伐の次は薩摩か?

・兵糧米が不足している

→長州と手を組めば不安が解消される

 

幕府

・長州は責任者、出せよ、ゴルァ!

・薩摩なにやってんの!長州攻めるぞ!

→余裕と思っていた第二次長州征伐がうまくいかず焦る

いかがでしょう?
状況だけ考えれば、薩摩と長州が結びつくのは自然の流れとは思いませんか?

しかし同時に、両者の間には、積年の恨みから激しい憎悪の情念が漂っています。

果たして会談なんて、うまくいくのか。

そこでキーマンとなったのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

 


龍馬と慎太郎と薩長同盟

坂本龍馬と薩摩は、以前から親密な関係が築かれておりました。

一方、尊皇攘夷派の志士だった中岡慎太郎は、土佐脱藩後に長州藩で世話になるなど、長州との関係は深いものがありました。

中岡慎太郎/wikipediaより引用

要は、龍馬も中岡も、薩摩と長州を繋げるのに、うってつけの人物だったのですね。

そして龍馬は実際に、自身の亀山社中(後の海援隊)を通じて「薩摩藩から長州藩へ武器を融通する」お手伝いを実行します。

あれほど憎しみ合っていた両藩も、いざ武器の調達が始まると現金なもので、長州藩主の毛利敬親・元徳父子から薩摩藩の島津久光・忠義父子に手紙が送られるなど、両者の関係性は急速に良化するのでした。

かくして迎えた1866年1月。

長州藩の木戸孝允が、薩摩との会談に向けて上洛します。

話し合いが行われたのは、小松帯刀が京都の宿舎にしていたという「御花畑」でした。

しかし、いざ会談が始まると、これが残念なことに全く上手くいきません。

木戸孝允と西郷隆盛が向かい合うと、かつての遺恨やプライドが邪魔して、自分たちから折れるような真似ができなかったのです。

「長州がお願いするなら、まぁ、受けてもいいけど」

「いやいや、そんなこと言ってねーわ!」

「んじゃ、どうしたいワケ?」

「ダメだこりゃ、帰るわ!」

とまぁ、超訳するとこんな感じで、互いに引けなくなっていたのです。

見かねたのが坂本龍馬でした。

「いい加減にせい!」ということで両者に熱弁を奮って態度を軟化させ、難しい局面を乗り越えます。

いかにもドラマチックで、そりゃあ幕末No.1の人気キャラになりますよね。

ともかくも、これにて薩長同盟が成立。

しつこく申しておきますと、あくまでこの時点では倒幕の約束はしておりません。

主目的は、お互いを助け合う――というものでした。

 


薩長同盟その後と慶喜

犬猿の仲である薩摩と長州が密約を交わしていた――。

いくら幕府が催促しようとも、薩摩は一向に重い腰を上げず、ついには1866年4月、大久保利通から「薩摩は長州征伐に参加しない」という建白書が提出されてしまいます。

大久保利通/wikipediaより引用

そして薩摩不在のまま長州へ攻め込み、幕府軍は連戦連敗。

1866年7月には将軍・徳川家茂が大坂城で亡くなってしまい、慶喜は強引に休戦を推し進めて、第二次長州征伐は幕府の事実上敗北となるのでした。

と言っても、スグに幕府が滅びるようなことにはなっておりません。

1867年5月に開かれた四侯会議では、島津久光・松平春嶽伊達宗城らと、15代将軍となった徳川慶喜が対面。

影響力を持とうとした彼らを蔑ろにするかのようにして会合を潰し、同年10月にはあっと驚く大政奉還をやってのけ、明治天皇に政権を返上するのです。

たとえ政権を手放したとしても、徳川一門の経済力は圧倒的です。

さらには長らく政権運営を担ってきたという自負もあり、徳川のチカラなくして政府の運営を行っていくのは無理――という判断をしていたとも伝わります。

しかし、その後の徳川慶喜は、多くの幕府サイドの人々を落胆させるものでした。

大坂で、配下の者たちには散々戦いを煽っておきながら、いざ鳥羽・伏見の戦いに敗れると、大将である自分が真っ先に大坂城から江戸へ撤退。

その後の戊辰戦争で、佐幕派の諸藩は、薩長を中心とした新政府軍に敗戦を喫するのです。

かくして薩長を中心とした明治の世が明けるのでした。


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文:五十嵐利休

【参考】
国史大辞典
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編 3』(→amazon
粒山樹『維新を創った男 西郷隆盛の実像 明治維新150年に問う』(→amazon

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