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【酒井了恒】
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白皙(はくせき)の名将、出馬す
庄内藩は、幕末の政局から距離を置いていました。
にもかかわらず、あまりに理不尽なカタチで泥沼の戦火へ。
東北の奥羽越列藩同盟も、会津藩と庄内藩を救うことを目的としたものです。
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戦禍はついに庄内藩まで迫る情勢となり、酒井了恒(のりつね)も応戦することとなりました。
彼は幼い頃から聡明で、庄内藩の江戸警護でも実績をあげていたのです。
彼の生まれた酒井玄蕃家は、代々家老を務める名門でした。
そこで酒井は、天保13年(1843年)に誕生。
藩校致道館(山形県鶴岡市観光連盟→link)では、兵学・剣術・馬術・漢詩・雅楽・笛を得意とし、才能あふれる少年として知られています。
庄内藩が江戸の警護を命じられてからは、寄合組頭に就任。
幕命を帯びて、潜伏する浪士を捕縛する等、活躍し続けました。
そんな彼の人生に暗雲がたちこめたのは慶応3年(1867年)のことでした。
庄内藩では公武合体を掲げる改革派を処断する「丁卯(ていぼう)の大獄」が起こり、祖父・右京が処断されたのです。
孫の代まで、家督相続したうえでの逼塞(ひっそく・謹慎のようなもの)という、厳しい処分を受けました。
しかし庄内藩が危機に陥ったことで、酒井に出番が回ってきました。
彼は寄合組頭から中老にまで抜擢され、庄内藩を率いることとなったのです。
このとき彼は、僅か26才。
後に鬼玄蕃と恐れられる武士の誕生となりました。
庄内藩はリッチで強かった
慶応4年(1868年)4月。
庄内藩は近接する柴橋・寒河江領の年貢米を搬出しました。
幕府から預けられたものという認識ゆえの行動です。
ところが、これに奥羽鎮撫府が目を光らせました。
この奥羽鎮撫府参謀を務めていたのが薩摩の大山格之助です。
彼らの認識としては、既にこの地域は天領であり、庄内藩の行為は米の盗難としました。
にわかに緊張の走る庄内藩と西軍。
鎮撫府はついに庄内藩領へ攻め込みました。
が、そこで撃退されてしまいます。
これには大山も愕然としたことでしょう。酒井率いる庄内藩の強さがついに表に出たのです。
彼らの装備が大変優れていたということも理由の一つ。
前述の通り、庄内地方は最上義光時代から経済的に大変恵まれておりました。
江戸時代において、幕末まで財政が息切れしなかった藩は貴重であり、庄内藩もそうでした。
酒田の商人たちの保護は最上家時代より始まっており、井原西鶴の『日本永代蔵』で紹介されるほどの繁栄ぶりです。
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その酒田商人でも際だっていたのが、本間家。
殿様をしのぐほどの資産家でああり、酒田では、こんな戯れ歌がありました。
「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」
【意訳】本間様みたいにリッチになるのは無理だけど、殿様レベルになれたらいいよね
現在、本間家旧本邸は酒田でも有数の観光地になっておりまして。
私が今までみた日本家屋の中では、最も豪華なものでもあります。
庄内藩兵は、この唸るほどの本間マネーで最新式の武装を備えておりました。
中には、会津藩の女スナイパー・山本八重(新島八重)が使用したことで名高いスペンサー銃もありました。
会津藩でスペンサー銃を使用していたのが八重だけ。
しかも弾薬不足ですぐに使用できなくなったことを考えると、いかに本間家が財力に恵まれているか、庄内藩の装備が強かったかがわかります。
鬼玄蕃無双伝説
「なんだ、庄内藩が強いのは武器のおかげなんだ!」
そう思うかもしれません。
否。
酒井も優れておりました。
例えば新庄城の戦いでの酒井は、二人の隊長を失い、劣勢に追い込まれると、彼は自ら味方の先頭に立ちます。
そして、刀をさげてこう大喝したのです。
「退く者は斬る!」
すると味方は発奮し、劣勢からの逆転勝利を得ます。
西軍の防御戦と、神宮寺岳という天然の要害に阻まれた際には、無灯火の夜間行軍で雄物川(おものがわ)を渡河。
まさか進軍しているとは気づかない無防備な敵の背後に襲いかかり、蹴散らすという胆略を発揮しました。
刈和野の戦いでは、酒井は病で寝込んでしまいました。
自分が不在のあいだ、味方が大敗したと知ると、酒井は翌日輿に乗って指揮を執ります。
周囲を敵に包囲され、武器弾薬も底を突きそうな中、酒井はこう言います。
「このまま敵に勝てずに撤退するのは、恥を後世に残してしまう! 一斉に打ち払うぞ!」
酒井の言葉に味方は大奮起、敵を蹴散らすと、刈和野を奪回。
すぐさま撤退に転じます。
結果、追撃も受けずに、庄内藩兵は自領まで戻ったのです。
戊辰戦争終結時、庄内藩領はほぼ無傷でした。
それどころか秋田藩領三分の一を支配下においたほどです。
鬼玄蕃の名にふさわしい、その強さでした。
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