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【酒井了恒】
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慈悲深さは敵からも慕われて
鬼にふさわしい強さながら、酒井の慈愛溢れる性格は、多くの人々から慕われました。
酒井は、常に兵士と同じ食事をとり、家に入るときは兵士を先に入れました。
しかも雨が降っていようと、そのまま待っているのです。
夜間に使者を送った際は、戻るまで草履を履いたまま待ち続ける。
山の上で布陣しているときは、茅葺きを焼いて温める。
アタマでわかっていても行動に移すのは難しい。そんな厳しい状況も酒井は率先する指揮官でした。
だからこそ、鬼玄蕃様のためなら死ねる――と、庄内藩の兵士たちは、常に高い士気を保ってたのです。
そしてその優しさは、味方以外にも発揮されています。
新庄城陥落の際は、藩主の居室には決して土足で踏み込まないよう命令を徹底、土蔵を封印して掠奪を禁じました。
酒井は進軍先での掠奪暴行を禁止し、戦死者はきっちりと埋葬し、調度品には金銭を支払いました。
酒井は、この禁令を破り乱暴狼藉を働いた仙台藩兵を、仙台藩に許可を取ったうえで斬首しています。
畑泥棒をした兵士が謹慎処分とされたほど、酒井はルールに厳格でした。
酒井は、進軍先で籾蔵を開放し、飢えた人々や孤児にわけ与えました。
秋田藩領の民は庄内藩兵を恐れることはなくなり、抜け道を教え、快く宿を提供したほどです。
敵すらその美しい酒井の行動に、惚れ込んでしまったのでした。
なにせ「庄内様、庄内様!」と、攻めこまれた秋田藩の領民がそう慕ったというのですから、これまたスゴイ。
新庄城を陥落させたあと、酒井の前にまだ幼い少年が、捕虜として引き出されました。
酒井は天を仰いで、こうつぶやきます。
「涙が、とまらない……」
そして自ら捕虜のいましめを解き、路銀を与えると、彼の下男ともども解放したのです。
もう、これには全庄内秋田が泣いてしまうわ……。
このままでも十分に「漫画の主人公ですか?」「話、盛りすぎですか?」と疑いたくなるのですが、酒井は更に、転戦先で連作『戊辰役二十絶』という漢詩を詠むほど、風雅でもありました。
現代人ならば「はぁ、鬼玄蕃様、尊い……」とぶっ倒れそうですが、同時代の人もそう感じていたようです。
「見る処察する処、聞く処、何れとして美しからずというは無きが如し。珍しくも尊き人なり」
【意訳】何をしても美しいとしか言えないよ、こんなにスゴくて尊い人いないよ
彼を知る桶越隆胤(ひごしたかたね)という人は、そう語り残しています。
不運なり、秋田藩
敵対する秋田藩からすれば、酒井率いる庄内藩はおそろしい敵でして。
せっかく西軍という勝ち組についたのに、秋田藩は庄内藩にボコボコにされるという悲運に見舞われたのです。
秋田藩は奥羽越列藩同盟と藩内尊皇派の板挟みにあい、尊皇派が列藩同盟の使者を殺害してしまう羽目に陥りました。
ずるずると引きずり込まれるように西軍についたうえに、庄内藩に連戦連敗。
秋田藩の装備は、火縄銃や刀剣槍に過ぎなかったのです。勝てるはずもありませんでした。
幕末の秋田藩は、かなり悲惨な境遇なのです。
藩主居城の久保田城まで進撃する庄内藩兵があまりに強すぎるため、藩主の佐竹義堯は、死を覚悟したほど。
困り果てた西軍は、秋田戦線に最新鋭の武器を装備した佐賀藩兵を援軍として送り込みます。
装備面の実力からいうと、実は戊辰戦争で最強といえたのは、薩摩・長州・会津・仙台ではありません。
西の最強が佐賀藩、東の最強が庄内藩でした。
戊辰戦争の戦力における頂上決戦は、あまり目立たないこの秋田戦線なのです。
最強決戦は膠着し、さしもの庄内藩もジリジリと戦線を押し戻されます。
そうこうするうちに、9月22日に会津鶴ヶ城が陥落。大勢は決したのでした。
降伏、そして西郷の寛大な処分
酒井らが守り抜いた庄内藩領は、会津藩領とは異なり、ほとんど損害がありません。
彼らは戦争に勝って、勝負に負けたのです。
そんな状況の中、酒井が詠んだ絶句がこちらです。
戦勝薩奴擁帝城(戦勝の薩奴 帝城を擁し)
爾來堪貧勤王名(爾來 貧るに堪えたり 勤王の名を)
關河一破連雞乱(關河一たび破れて連鶏乱れ)
又不昔時白石盟(復せず昔時白石の盟に)
【意訳】薩摩の賊が京都を征圧し、それ以来勤王の名をほしいままにした。奥羽列藩同盟は崩壊、白石同盟の時点まで戻ることはできなかった
しかし庄内藩は、幸運でした。
西郷隆盛は寛大な処分を行い、庄内藩を厳しく罰することはなかったのです。
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そのため現在に至るまで、庄内地方は西郷隆盛の人気が高い地方です。
元庄内藩士が、恩に報いるため西南戦争に馳せ参じた例もあるほど。
ではなぜ、西郷が庄内藩に対して寛大であったのか?
実は西郷だけではなく、薩摩藩は敗者に寛大です。
喧嘩して殴り合ったあと「おはんはよか敵じゃった」と讃えるような、そんな精神を感じます。
例えば桐野利秋は、会津若松城落城の際に敵の無念を思い号泣し、松平容保を感動させたほどです。
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あるいは大山巌は会津藩出身の山川捨松にぞっこん惚れ込みました。
相手の実家が渋る中、大山周辺の西郷従道らは山川家に押しかけ、屈託なく結婚しようとしました。
山川家が、"うちは朝敵だから”と拒んでも、
「西南戦争以来、うちも朝敵じゃっで問題なか!」
と粘りに粘り、陥落させています。
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要するに、あまり根に持たないどころか、相手を尊敬する、そういう精神性を感じます。
これは長州藩と比較するとより顕著で、明治政府成立後は長州藩出身者のほうが旧幕臣、佐幕藩出身者につらくあたりました。
長州藩士のメンタリティというよりも【長州征伐】で息の根を止められかけた……そんな苦い記憶からの反発もあったのでしょう。
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そんな西郷らが、「よか稚児」であり、強敵である酒井を厳しく罰することはなかったのも、納得できます。
庄内藩の多くの人々は、このときから西郷を敬愛するようになりました。
明治維新以降、酒井は下野した西郷をおとずれ、はるばる鹿児島を訪れ、理由を聞いたこともあるほどでした。
死後に証明されたその智謀
ここまででも華麗なる鬼玄蕃様伝説なのですが、維新後も政府に出仕したうえ、なかなかすごい属性が追加されることになります。
酒井は政府の密命を帯びて清国にわたり「北清視察戦略」を提出。
なんと!
その明晰な頭脳を買われて、スパイになったのです。映画の世界だけじゃないんですね。
そんな酒井は、明治9年(1876年)、戊辰戦争のころから患っていた持病の肺結核で亡くなりました。
享年35という若さ。
そして鬼玄蕃の最強伝説は、60年以上の月日を経て、また新たな一章が付け加えられます。
中国大陸に進軍した日本軍は、やがて広大な国土、険しい地理や気候風土、食料国民性の違いに苦しめられ、泥沼へと突入してゆきます。
酒井が生前残していた報告書「北清視察戦略」には、まさにその懸念が述べられていたのです。
酒井の見識は、日本の失敗すら予測していたのでした。
まさにおそるべきその観察眼、そして知略でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『「朝敵」たちの幕末維新』(→amazon)