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【岩瀬忠震】
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多くの大名には理解できない条約内容
安政4年(1857年)末。
いよいよ条約締結も見えて来たころ、岩瀬は大名を集め、条約の意図をプレゼンしました。
「なるほど、今は条約締結しかありませんね。開国した上で、今後を考えねばならないでしょう」
「ついにこの時が来たか。我が藩の優れた産品ならば、海外貿易でも十分高評価が得られるだろう」
これが理想の反応ですね。
しかしこういう反応は、賢明で知られ、開国論を理解し人の意見をよく聞いた松平春嶽や、この展開を見据えて輸出用薩摩切子を開発していた島津斉彬のような、ごく一部のデキる人たちだけでして。
「えっ……どういうこと?」
「財政カツカツなのに、輸出品作れって言われても、わからないし。外国人って何が欲しいのか想像つかないし!」
大半の大名にとっては、何がなんだかわからないわけです。
「なぜ異人と取引に応じないといけないのだ! ふざけるな!!」
「条約なんて絶対に駄目だ! 締結するなら切腹する!!」
そう大騒ぎする過激派まで出る始末。
なんとか堀田らが説得したものの、ここで窮地に立たされます。
「まずい。ハリスにはそろそろ締結できそうだと言っているのに、大名がこれではできない」
ここで堀田や岩瀬らは、禁断の手を思いついてしまったのです。
「そうだ、朝廷から勅許をもらえば、大名も黙るはず!」
岩瀬は井上は、残念ながら、京都を甘く見ておりました。
ハリスに向かってこう言いました。
「朝廷なんて貧しくて、坊主や寺社の街で何もないんですよ。ゼロの街です」とまぁナメきっていたのです。
ハリスはいぶかしく思い、天皇崇拝に関しての知識を語りました。
が、二人とも一笑に付してしまいます。
こうした岩瀬の言動を見ていると、彼は頭の回転が速すぎたのかもしれない、と感じてしまいます。
松平春嶽や堀田正睦など、荒波に飲まれながら結果を出してきた人物にはスグに伝わる話でも、他の凡人にはそう簡単ではない――ことが理解できない。
それが裏目に出てしまいました。
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朝廷は、もっと理解できなかった……
堀田正睦と岩瀬らが足を踏み入れた京都。
そこに待ち受けていた孝明天皇はじめ皇族と公卿は、開国について全く理解できていませんでした。
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「異人は嫌どす。相手に開国して、異人が都に入り込んで来るようなことがあれば、どないしたらええ?」
この頃の京都は、終始こんな調子でして。異人は人間というよりも、得体の知れない怪物、それこそ犬猫あるいは鬼や天狗と勘違いしているのでは?というほど怯えているのです。
ただし、攘夷派でも意見は割れております。
穏健派:孝明天皇はじめ皇族や上流貴族・幕府と協調路線、暴力反対(→公武合体派へ)
過激派:鬱憤が溜まっている下流貴族・幕府に反発(→尊皇攘夷過激派へ)
ともかく、朝廷の理解がそこまで酷いと思ってなかった岩瀬は、必死でプレゼンを行います。
「……と、このようにアメリカ、イギリス、フランス、ロシア等が迫っており……貿易は国を豊かにすることができ……」
しかし反応は……
「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」と、何もわかっていない人。
「異人が都に入ってくると思うと、もう怖くて、食事も喉を通らへんし、夜も眠れへん。なんとかしとくれやす」と、そんなふうにひたすら怯えている人。
「アホくさ。今更公卿に政治のことなんか言われてもしらへん。公家にできるわけあらへんやろ」と、しらけきってやる気のない人。
「ちょうどええわ。ここいらでうちの力、見せときまひょ」と、露骨に他の公卿相手に牽制を始める人。
「まっとったで、この時を! 今こそ幕府にとことん反対して、思い知らせてやるさかい!」と、積年のつもりに積もった鬱憤を、ここぞとばかりに幕府にぶつけてやろうと荒ぶる人……。
いずれにせよ話になりません。絶望的です。
彼らの建白書はこんな調子でした。
・輝かしい神の国である日本が、穢らわしい蛮夷の国と同列に交わるとは国を穢すもの。天照大神以来の先祖に申し訳がたたない
・堂々たる皇国が蛮夷の脅しに屈して頭を下げて対応し、その言い分に屈するとは末代までの恥。条約に反対してこそ、人心はつなぎとめられる
・蛮夷どもは、口では調子のいいことを言いながら強欲で搾取しようとし、我が国が拒めば武力で脅してくるに違いない。彼らの目的は我々を騙してキリスト教徒にすることで、そのうち日本を占領するつもりだ! もし戦争になったら天皇はどこに逃げて、幕臣はどこに住むつもりか
堀田はこうしたやりとりに、愕然として震えました。
「堂上正気の沙汰とは存ぜられず……(朝廷の公卿どもは頭ぶっ壊れてんじゃねえの!?)」
それでも堀田が交渉を続けると、こんな答えすら返ってきました。
「まあいろいろ意見があるやろけど。どうしても決められへんかったら、伊勢神宮でおみくじでも引いて決めまひょ」
「お、お、おみくじ……」
もはや限界。江戸に戻って決めるしかない。堀田はそう考えたのです。
要するにこれは、堀田や岩瀬らと、朝廷の人々のレベルが違い過ぎというものです。話がかみ合うはずもありません。
こんな調子で、もし朝廷が外国と交渉していたらどうなっていたことでしょう?
そして悲劇的なことに、幕末尊王攘夷派と呼ばれた人々は、大体がこうした公家と同程度の知識と意見しかないところからスタートしたのでした。
しかも、公卿よりずっと暴力的で、血に飢えていて、鬱憤晴らしをしたいと考えている。危険な存在であったのです。
途中で攘夷の非を悟った者もおりましたが、そうではない人もいたわけです。
一橋派は改革の旗印だった
こんな大変な時代こそ、一致団結して国難に当たるべき――。
そういう方向へ素直に向かわないのが、幕末という時代のややこしさです。
大名たちの中でも、トップレベルの知能を持つ、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城ですら、そういう考えには至りませんでした。
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「国を一致団結させるため、次の将軍は強い人がいいですね!」
そう開国外交そっちのけで将軍継嗣問題に力を入れてしまったのです。
そしてこのことが、幕末の情勢を極めて悪い方向に押し流してゆきます。
岩瀬も、一橋慶喜を将軍とすることは好意的に見ていました。一橋派の橋本左内とは、肝胆相照らす仲。岩瀬は彼らに取り込まれていくようになります。
その岩瀬が説得したため、堀田正睦までもがだんだんと消極的な一橋派になりつつありました。
斉昭は自分を幕政から追い出した堀田が大嫌いでしたので、岩瀬としてはこの二人を和解させたかったのかもしれません。
ここで考えていてもよくわからないのが、どうして人々は政治の一致団結を見出してまで、【一橋派に期待をしたか?】という点です。
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このあたりの動機がよくわからないまま、一橋派と南紀派の争いがあった、と言われてしまうのですが。
どうしてそこまで一橋慶喜の擁立を重視したのか。
我が子が将軍になる徳川斉昭。政権中枢に食い込めることが確実であった島津斉彬、松平春嶽およびその家臣の動機は理解できます。
しかし、中央から遠い吉田松陰ですら一橋派勝利を熱望していたのはナゼでしょうか。
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思うにこれは【期待感】ではなかろうか?と思うことがあります。
血筋がより家康に近いとかではなく、国内屈指の実力者たちが推薦する人物をトップに据える、これまでとは違った政治のダイナミズム――という理屈です。
一橋派にあるのは「=改革派」というイメージ。
慶喜の方が年長であるとか、聡明であるとか、そういった彼自身の能力ではなく、フレッシュな期待感がむしろ先に来ていたのではないでしょうか。
ただし、冷静に考えると一橋派にはミスがありました。
・徳川斉昭が不人気だった
特に将軍の意志決定に対して力を持つ大奥から嫌われていたことは、大きな障害でした
・徳川斉昭が開国反対で攘夷派であり、その子である慶喜も同じだと考えられていた
そのため「斉昭の子・慶喜が将軍になったら、強引な攘夷をして危険だ」と考えてしまう者もいたのです。
斉昭ものちに開国に賛成しており、慶喜は父と違って攘夷とは距離を置いていましたが、このイメージの強さは悪影響をおよぼしました
・正統性の薄さ
血縁的な正統性となると、慶喜の場合はかなり劣っていました。
これからの政治は血縁的正統性より資質だ、と言いたかったのかもしれませんが、正統性を重んじる立場からすれば認めるわけにはいきません
・タイミングの悪さ
改革を迫るということは悪くないでしょうが、よりにもよって条約締結をしている最中に政治工作をしてしまったことは、「この大事な時期に、和を見出すような行動をしている」と見られても仕方ないことでした
・朝廷に工作を仕掛けた
将軍継嗣に納得できない、堀田正睦から幕政から追い出されたことに腹を立てた徳川斉昭は、朝廷に対して工作を仕掛けます。
この工作は、天皇以下公卿が将軍継嗣に関してはまったく感心がなかったため不発に終わり、しかも大きなマイナスの影響を与えることになります
一橋派は、国を変えたい大きな志があったのだとは思います。トップクラスの頭脳も揃っていました。
しかし、彼らはこうしたミスを犯していたのです。
一橋派に賛同していた阿部正弘が急死したことで、風向きは不利な方向に向かいます。
そして彼らの敗北を決定的にする後任者が、老中として就任するのです。
井伊直弼との対立
一橋派とアンチ一橋派(南紀派)の暗闘は続いていました。
そんな最中、井伊直弼が老中に就任します。
岩瀬は、井伊直弼のことをさしたる政治家ではないと見なしていました。
この過小評価が失敗だったかもしれません。
井伊は、徳川家の先鋒であることを常に意識する、頑固でパワー溢れる人物でした。
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そのことを周囲が知るのは、彼が就任してからのこと。
それまでは、無害な男だと考えられていたのです。
井伊は紀州家の徳川慶福(後の徳川家茂)を跡継ぎとすることを発表します。
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結果、一橋派の野望は打ち砕かれるのでした。
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