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【岩瀬忠震】
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条約締結の覚悟
そんな中、岩瀬は奮闘していました。
ハリスは煮詰めた条約が未だに締結的ないことに、苛立ちを感じています。引き延ばしは最早できません。
岩瀬が調印しようとすると、井伊の配下・宇津木六之丞景福は懸念を表明しました。
「あなたの政敵は、あなたこそが勅許を取らずに条約を締結したと責め立てるのではないでしょうか? 慎重になられたほうが……」
「構わん。責任は私一人がとる」
この懸念は大当たり。尊王攘夷派や薩摩藩、長州藩、その流れを汲む明治新政府も、幕府の行動を責め立てました。
「不平等条約を、勅許なしで撮った弱腰幕府! 異人の言いなりになった幕府! 無能な幕府のせいで、不平等条約改正にどれだけ苦労したと思うのだ!」
冒頭で述べた通り、このことについては、もっと冷静に考える必要がありそうです。
井伊にせよ、岩瀬にせよ、こうした糾弾は覚悟の上でした。
そのリスクをわかってないワケじゃない。それでも締結を進めなければならなかった。
岩瀬は、橋本左内宛ての書状で、
【自分たちは王倫と秦檜だと思われるだろう、この先大変な重罪を問われるかもしれない】
とこぼしています。
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しかし岩瀬の転落は、条約とは関係ないところで訪れました。
岩瀬は彼を嫌った井伊によって、作事奉行に配置転換されるのです。
要は左遷でした。
転落、不遇の死
岩瀬の決定的な破滅は、条約とは関係ないところで訪れます。
井伊は、水戸藩にくだされた「戊午の密勅」に一橋派が関与したことに激怒、処断を決意したのです。
この国難の最中、倒幕のキッカケとなりかねない密勅を、ドサクサに紛れて出したのです。
井伊の怒りは【安政の大獄】という政治弾圧となって炸裂します。
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その結果……。
橋本左内、斬首。
吉田松陰、斬首。
彼ら無念の若者に隠れて目立ちませんが、岩瀬の処分も、日本にとっては大きな痛手でした。
当時の日本でトップクラスの頭脳を持つ、敏腕外交官・岩瀬忠震は、永蟄居処分となったのです。いわば政治的な死。
これほどの才人には過酷な措置でした。
一方、井伊としても大いに譲歩したつもりであったのです。
「みだりに将軍の後継者問題に口を挟んだことは、死罪が相応である。ただし、岩瀬は条約交渉に功があるため、一等減じよう」として、岩瀬は江戸の向島に隠居し、書画を楽しむ日々に入ります。
そして文久元年(1862年)に病死。
享年44。
せめてあと一年、文久2年(1862年)の島津久光上洛に端を発した「文久の改革」まで生きていれば、松平春嶽のように返り咲くチャンスもあったでしょう。
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しかし、彼にその時間はありませんでした。
激務の間も、長年にわたって結核と思われる病魔と闘っていたのです。
返り咲くことなく世を去った岩瀬忠震――。
「このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である」
ハリスがそう絶賛した岩瀬の名は、恩人と思われるどころか、忘れ去られているかのようです。
しかも彼の成し遂げた条約締結という大事業は「弱腰で無能な幕府の失策」とすら見なされているのです。
何とも悲しいことであります。
伏魔殿から魔星が飛び出す
確かに岩瀬は優秀でした。
しかし、その優秀さのせいか、物事をちょっと甘く見てしまったのではないか、と思える部分もあります。
誰もが皆自分と同じレベルで物事を見て、理解できるわけではない――。
その想定の欠如が、大名や朝廷から理解を得られない事態に繋がっている気がするのです。
彼の最大のミスにして、幕末の情勢に与えた最悪の影響は、大名を抑えつけるために朝廷を持ち出してしまったことです。
中国の古典文学『水滸伝』の冒頭は、封印された伏魔殿の扉を開けてしまうところから始まります。それがキッカケで、百八の魔星が飛び出して物語が幕を開けます。
堀田正睦と岩瀬らは、条約勅許を得るために京都へ向かいました。その行動は、まるで伏魔殿の扉を開けたかのように思えます。
『水滸伝』における魔星は、英雄の象徴です。
このときも、のちに英雄と呼ばれる者も飛び出しました。
一方で、これも『水滸伝』の魔星のように、流血と暴力ももたらすこともありました。
堀田や岩瀬らが、勅許を得るため京都にやってくる。
その背後で、徳川斉昭、井伊直弼、松平春嶽らの派遣した者たちが、政治工作を行いだしたのです。
その時、不満を抱えた下級貴族たちは、ついにハケ口を見つけてしまいました。
【天皇の権威をかざし、攘夷を断行しろと迫ると、幕府が困る】ことを発見したのです。
彼らは穏健派の孝明天皇が、攘夷よりも幕府との連携を重視するようになっても、止まることはありませんでした。
当時の日本には、暗い鬱屈が渦巻いていました。
度重なる災害でどの地域でも疲弊し、暴力的解決手段を厭わない者が増え、治安は悪化。何かムシャクシャしていて、暴力的な発散をしたくてたまらない者たちが、そこら中にいたのです。
黒船が来航し、外国人たちがこの国の土を踏んだ時。
彼らの中にはその暴力的衝動を「小攘夷(=ヘイトクライム)」という形で発散できることに気づきました。
尊皇をかざし、攘夷を唱える。そうすれば、幕府も譲歩せざるを得ない。そのことに気づいた者たちが続々と京都にのぼります。
二世紀以上政治から忘れ去られていた京都は、さながらスズメバチの巣のような、謀略と流血の渦巻く街と化してゆくのです。
岩瀬が期待を寄せていた一橋慶喜は第15代将軍となりました。
その慶喜は慶長4年(1868年)、錦の御旗に追われるようにして江戸に戻ることになります。
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岩瀬と堀田が朝廷工作に失敗して戻った安政5年(1858年)の、ちょうど十年後のこと。
わずか10年の歳月で、幕府と朝廷の力関係は逆転してしまったのです。
不平等条約締結は過ちだったのか?
日本史の授業を思い出してください。
だいたい、以下に引くWikipediaのような問題点を習ったはずです。
この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。
とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした。
本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。
裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。
明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ。
これを読むと、こういう感想に至るはずです。
「なぜ幕府は、こんな条約を結んだのだろう? 幕府が無責任なことをしたせいで、困ったことになったんじゃないか」
しかし、何度か申し上げましたように、これには注意が必要です。
1. 当時の争点は条約の内容ではなく、勅許を得ていないことでした。異人と交渉したことそのものが屈辱だとみなす意見すらありました
2. 攘夷事件が続発していた当時の事情を考えれば、「外国人居留地」を設定しないことは非現実的です
3. 当時の制度では、治外法権の設定は非現実的です(これはハリス側もそう証言しています)
4. 関税が下げられたのは攘夷事件が続発し、締結国が不快感を示したため。関税に関して悪いのは攘夷を行った者です。オランダはじめ多くの国が攘夷をすれば国益を損なうと警告し、幕府もそう認識していましたが、頑なな尊王攘夷派はそのことを理解しませんでした。そうした情事事件の結果、現代の観点からみても妥当であった20パーセントという関税が、最終的には5パーセントにまで下がっていったのです。
5. 条約とは、締結後修正してゆくものであるというのが、当時の国際的な認識でした。締結しなければ始まらない、締結してから適宜修正するのというのが、当時の国際事情での常識。不利な条約をなかなか改正できなかったとすれば、明治維新後は新政府の外交力の問題です。それを幕府のせいだと言い張るのは、責任転嫁です
当時は条約を結ぶしかない、それが最善の策でした。
そしてそんな難しい交渉が可能であったのは、岩瀬のような幕臣でもトップクラスのエリートだけでした。
それを、当時は攘夷論で煮えたぎっていて、実際に実行に移した人もいる、そんな新政府の皆さんが非難するのは筋違いではないでしょうか。
彼らに必要であったのは隠蔽や責任転嫁ではなく、反省であったはずです。
幕末から明治にかけて、多くの英雄や偉人が登場したとされています。
しかし、その内容には偏りがあり、岩瀬はじめ幕臣はどうにも日が当たらないのは残念なことです。
岩瀬の言動を知ると、この当時、しかも開国からこれだけの時間で、ここまで国際化できた人がいたのかと驚くほかありません。ハリスが恩人であると言ったのも、理解できます。
これほどの才知溢れる人物がいたからこそ、日本は最悪の事態を免れることができました。
そのことは、忘れてはならないのではないでしょうか。
もし岩瀬がもっと長生きしていたら?
天と地の間の人は皆同じであるという精神は、きっと日本をよりよい方向へと導いたことでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小野寺龍太『岩瀬忠震:五州何ぞ遠しと謂わん (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
『国史大辞典』
他