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【幕末の皇族&公家】
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幕末の倒幕派公家
お次は公家です。
近衛忠房(ただふさ)
天保9年(1838年)-〜明治6年(1873年)
父・近衛忠煕。母は島津斉興の養女(実妹)・興子で、その間に生まれた子(生母は諸説あり)。
文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が上洛した際には、自邸で久光と三条実愛の会談を実現させました。
過激な尊皇攘夷による武力行使よりも、穏健な策による幕政改革をすべきだという、バランス感覚の取れた人物。
早くから薩摩藩と長州藩が連携してよりよい策を採るべきであると考えていました。
一条忠香(いちじょう ただか)
文化9年(1812年)〜文久3年(1863年)
近衛忠煕とともに「戊午の密勅」に関与した公卿。九条尚忠の罷免にも関与。
姉小路公知(あねがこうじ きんとも)
天保10年(1840年)〜文久3年(1863年)
彼自身の実績よりも「幕末四大人斬りの一人」薩摩藩士・田中新兵衛の犠牲者としての方が有名という、気の毒な人物です。
三条実美と並ぶ、尊皇攘夷過激派で長州藩士と懇意にしていました。
猿が辻で3人の刺客に襲撃され、応戦するも自邸で亡くなります。(「朔平門外の変」)。
現場に落ちていた刀が田中新兵衛のものであるとされましたが、田中が取調中に自害したため真相は不明です。
鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)
文化4年(1807年)〜明治11年(1878年)
鷹司政通と徳川清子(水戸斉昭の姉)の子。水戸斉昭にとっては甥に当たります。そのためもあって、一橋派です。
安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際し、堀田正睦らが日米修好通商条約の勅許を求めてきた際には、大反対。
水戸藩や福井藩に味方し、将軍継嗣問題では一橋派に回ります。
近衛忠煕、三条実万とともに「戊午の密勅」を献策し、水戸藩へ勅諚を賜るよう活動しました。
そのため「安政の大獄」において、辞官に追い込まれてしまいます。
その後は長州派尊王攘夷派の公卿として知られました。
元治元年(1864年)「禁門の変」では、鷹司邸に久坂玄瑞や寺島忠三郎ら長州藩兵が逃げ込んで来ます。
そこへ薩摩藩・会津藩らの兵が攻撃を仕掛けたため、火災が発生、京都を巻き込む大火災となりました。
長州藩兵と通じたとして、謹慎処分。
明治維新後、赦免されてからは新政府に参加しています。
正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)
文政3年(1820年)〜明治42年(1909年)
「安政の大獄」に連座。
常に薩摩藩の政策に賛同しており、「討幕の密勅」を薩摩藩に伝達する役割を担っています。
倒幕をリードした公卿の一人。
大原重徳(おおはら しげとみ)
享和元年(1801年)〜明治12年(1879年)
エキセントリックなまでの尊王攘夷派公卿で、人呼んで「鵺卿(ぬえきょう)」。
思想的に対立する相手の駕籠を襲撃したこともあります。
島津久光上洛の際は、江戸に派遣する勅使として任じられ、幕府に対して強く攘夷を迫りました。
橋本実麗(はしもと さねあきら)
文化6年(1809年)〜明治15年(1882年)
和宮の生母・観行院(橋本経子)の兄。
和宮の降嫁に断固反対の立場でした。
尊王攘夷派長州派であったため、「禁門の変」で謹慎処分を受けています。
中山忠能(なかやま ただやす)
文化6年(1809年)〜明治21年(1888年)
明治天皇生母・中山慶子の父で尊王攘夷長州派。
「禁門の変」では長州藩と通じていたとして謹慎処分になります。
岩倉具視とともに「倒幕の密勅」を得るため活動し、明治維新後は、天皇の外祖父として尊重されました。
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