左から山階宮晃親王・姉小路公知・有栖川宮熾仁親王/wikipediaより引用

幕末・維新

実はかなり過激だった幕末の皇族&公家18名! 武闘派は自ら進んで戦争にも参加

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幕末の皇族&公家
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幕末その他の公家

さらに追加で公家をピックアップしておきましょう。


九条尚忠(くじょう ひさただ)

寛政10年(1798年)〜明治4年(1871年)

九条尚忠/wikipediaより引用

安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際し、堀田正睦らが日米修好通商条約の勅許を求めてきた際には、幕府と歩調と合わせようとします。

しかしそのことが、他の公卿の大反発をかいました。

孝明天皇も怒り、関白としての内覧を停止されてしまいます。

その後も和宮降嫁等、朝廷と幕府の公武合体協調路線をすすめたため、尊王攘夷派の反発により謹慎を余儀なくされました。

 


久我建通(こが たけみち)

文化12年(1815年)〜明治36年(1903年)

孝明天皇の信認があつく、関白よりも権力があるとして「権関白」と呼ばれました。

久我建通/wikipediaより引用

公武合体策としての和宮降嫁にも活躍した公卿です。

しかし、その際の行動が尊王攘夷派の反発を買い、賄賂をもらって婚儀を進めたとの悪評が立ってしまいました。

薩摩藩士を中心に弾劾されてしまい、失脚。蟄居処分とされてしまいます。

 

二条斉敬(にじょう なりゆき)

文化13年(1816年)〜 明治11年(1878年)

幕末最後の摂関職

二条斉敬/wikipediaより引用

公武合体を支持した孝明天皇の信任あつく、朝彦親王とともによく補佐にあたりました。

親幕派であったため、尊王攘夷派から辞職を迫られるものの、孝明天皇により慰留。

しかし、孝明天皇の崩御後は摂関職そのものが廃止され、政治に寛容することはできなくなりました。

 


醍醐忠順(だいご ただおさ)

文政13年(1830年)〜明治33年(1900年)

日米修好通商条約に関して勅問(孝明天皇からの質問)を受けた際、「畿内以外は開港するべき」と回答したとされます。

醍醐忠順/wikipediaより引用

戊辰戦争にも従軍。

明治維新後は、初代大阪府知事になりました。

開明的で、高い能力の持ち主であったのでしょう。

 

堤哲長(つつみ あきなが)

文政10年(1828年)〜明治2年(1869年)

堤家は公家の中ではかなり格下で、貧しい家でした。

薩摩藩島津家と関係があります。

第8代藩主・島津重豪の側室・お千万の方(春光院、第9代藩主・斉宜の母)は、堤家出身であったのです。

そのためか、哲長は公卿でありながら海外事情通というかなり珍しい人物。

『オランダ風説書』、漂流民関連の情報、ペリー来航の情報等を把握していました。

ペリー来航/wikipediaより引用

勝海舟をして「当時、開国の意味を本当にわかっていた唯一の公卿」と言わしめました(※先程の山階宮晃親王は皇族)。

もっと家格が高く、発言力が強かったら……と思わざるを得ません。

公卿というと、お歯黒に白粉をつけた、優雅で弱々しいイメージもあります。

しかし、従軍した人、刺客相手に応戦した人、敵対者の駕籠を襲撃した人までおり、単純なイメージでくくれないことがご理解いただけたでしょう。

武士の陰とされがちな彼らも、激動の幕末史において、彼らなりの戦いを繰り広げていたのです。


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文:小檜山青

【参考文献】
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon
『国史大辞典』

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