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【幕末の皇族&公家】
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幕末その他の公家
さらに追加で公家をピックアップしておきましょう。
九条尚忠(くじょう ひさただ)
寛政10年(1798年)〜明治4年(1871年)
安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際し、堀田正睦らが日米修好通商条約の勅許を求めてきた際には、幕府と歩調と合わせようとします。
しかしそのことが、他の公卿の大反発をかいました。
孝明天皇も怒り、関白としての内覧を停止されてしまいます。
その後も和宮降嫁等、朝廷と幕府の公武合体協調路線をすすめたため、尊王攘夷派の反発により謹慎を余儀なくされました。
久我建通(こが たけみち)
文化12年(1815年)〜明治36年(1903年)
孝明天皇の信認があつく、関白よりも権力があるとして「権関白」と呼ばれました。
公武合体策としての和宮降嫁にも活躍した公卿です。
しかし、その際の行動が尊王攘夷派の反発を買い、賄賂をもらって婚儀を進めたとの悪評が立ってしまいました。
薩摩藩士を中心に弾劾されてしまい、失脚。蟄居処分とされてしまいます。
二条斉敬(にじょう なりゆき)
文化13年(1816年)〜 明治11年(1878年)
幕末最後の摂関職。
公武合体を支持した孝明天皇の信任あつく、朝彦親王とともによく補佐にあたりました。
親幕派であったため、尊王攘夷派から辞職を迫られるものの、孝明天皇により慰留。
しかし、孝明天皇の崩御後は摂関職そのものが廃止され、政治に寛容することはできなくなりました。
醍醐忠順(だいご ただおさ)
文政13年(1830年)〜明治33年(1900年)
日米修好通商条約に関して勅問(孝明天皇からの質問)を受けた際、「畿内以外は開港するべき」と回答したとされます。
戊辰戦争にも従軍。
明治維新後は、初代大阪府知事になりました。
開明的で、高い能力の持ち主であったのでしょう。
堤哲長(つつみ あきなが)
文政10年(1828年)〜明治2年(1869年)
堤家は公家の中ではかなり格下で、貧しい家でした。
薩摩藩島津家と関係があります。
第8代藩主・島津重豪の側室・お千万の方(春光院、第9代藩主・斉宜の母)は、堤家出身であったのです。
そのためか、哲長は公卿でありながら海外事情通というかなり珍しい人物。
『オランダ風説書』、漂流民関連の情報、ペリー来航の情報等を把握していました。
勝海舟をして「当時、開国の意味を本当にわかっていた唯一の公卿」と言わしめました(※先程の山階宮晃親王は皇族)。
もっと家格が高く、発言力が強かったら……と思わざるを得ません。
★
公卿というと、お歯黒に白粉をつけた、優雅で弱々しいイメージもあります。
しかし、従軍した人、刺客相手に応戦した人、敵対者の駕籠を襲撃した人までおり、単純なイメージでくくれないことがご理解いただけたでしょう。
武士の陰とされがちな彼らも、激動の幕末史において、彼らなりの戦いを繰り広げていたのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』
他