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【勅撰和歌集】
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4 後拾遺和歌集
勅命:白河天皇(在位1072-1076年)
選者:藤原通俊(ふじわら の みちとし)
白河天皇の時代は藤原摂関家が後退しつつあり、それに伴って宮廷文化も下火になりはじめた頃合いでした。
そんな時代に、藤原彰子の女房たちなどが形成した華やかな文学サロンを振り返るような形で作られたのがこの歌集です。
和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などの藤原彰子に仕えた女房たちや、その縁者、能因法師など僧侶の詠んだ歌が幅広く収録されています。
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しかし、選者に任命された通俊がまだ若年だったこともあり、重鎮とされる歌人たちからは難癖をつけられ、あまり評価されませんでした。
中には、「津守国基という歌人が三首も収録されたのは、通俊に賄賂として鰺(アジ)を贈ったからだ」とまで言われ、「小鰺集」という蔑称までつけられたそうです。ひでえ。
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5 金葉和歌集
勅命:白河上皇(天皇在位1072-1076年)
選者:源俊頼(みなもと の としより・宇多源氏)
白河天皇も後拾遺和歌集の評判を気にしていたのか、再度勅撰和歌集の編纂を計画しました。
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選者は源俊頼(みなもと の としより)という人です。
ところが今度も一筋縄ではいきません。俊頼の選歌が白河天皇の目に叶わなかったのか、三度も改稿されているのです。
最初のバージョンから順に初度本(しょどぼん)、二度本(にどぼん)、三奏本(さんそうぼん)と呼ばれています。
当然、最後にできた三奏本が正式なものなのですが、これは宮中に秘蔵されてしまったため、現代に至るまで、世に出回っているのは二度本なんだとか。
三奏本の段階でも、以前の勅撰集と重複している歌が五首あったためか、同時代の歌人からは「ひじつきあるじ」=「ニセモノの勅撰集」とまで酷評されています。ひっでえ。
しかし、鎌倉時代ごろになると、「以前の勅撰集にはなかった、題材や言葉を入れた斬新な歌が多く含まれている」という点が評価されるようになります。
まぁ、流行と常識ってそんなもんですよね。
6 詞花和歌集
勅命:崇徳上皇(天皇在位1123-1141年)
選者:藤原顕輔(ふじわら の あきすけ)
収録数は415首という、勅撰和歌集の中でも最少の歌集です。
こぢんまりした印象を受けますが、これは後拾遺集時代を重視し、編纂当時の歌人は一人一首を原則として厳選したからです。
例外は崇徳上皇と顕輔ですが、まあ勅命出した人と選者ですしね。
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7 千載和歌集
勅命:後白河院(天皇在位1155-1158年)
選者:藤原俊成(ふじわら の としなり)
俊成は勅命を受ける前から私的に和歌集の編纂をしており、それを元にしてさらに選歌を進めて千載和歌集を作ったのだそうです。息子の藤原定家も、編纂の助手を務めたとか。
一条天皇の時代(清少納言や紫式部などが活躍した時代)から、俊成たちの時代までに限定し、これまでの勅撰集に収録されていなかった歌を集めています。
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最多入集歌人は「金葉和歌集」撰者でボロクソにいわれていた源俊頼でした。
また、後白河法皇の意向で、俊成の歌も俊頼の次に多く入れられています。他、崇徳上皇など政治的敗者の歌も選ばれました。
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全体的に見ると、半数が同時代の歌人の作である他、僧侶が2割を占めています。
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