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【ドラマ大奥の舞台・江戸庶民の暮らしぶり】
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眼鏡
綱吉や右衛門佐だけが高まった教養の恩恵を受けていたのか?
そうではありません。
大奥には秋本という眼鏡をかけた者がおり、右衛門佐に協力していました。
眼鏡はいつから日本に来たのか?
戦国時代の終わりに、宣教師のザビエルが大内義隆に献上したと記録されます。
徳川家康が愛用した眼鏡も、静岡県・久能山東照宮に残されています。
伊達政宗の副葬品にも眼鏡がありました。
とはいえ、この時点ではまだ現代の「ルーペ」といったほうが近い。
17世紀のヨーロッパでは、紐を用いてかけるタイプの眼鏡が登場しました。
日本の長崎出島にはオランダ人が訪れてきます。こうして広まった眼鏡を日本人も工夫してかけるようになってゆきます。
フレームの材質は鼈甲や水牛の角等。まだまだ高級品であり、秋本は眼鏡を買うために大奥入りをしたとか。
綱吉編では、江戸っ子のお江とお美も眼鏡をかけています。
高いながらも、庶民まで手に入ることがわかります。
そして彼女たちだって眼鏡が必要になるほど、印刷物を読んでいたこともわかるのです。
瓦版と世論
技術が発達すると、まず重要性の高いものに用いられます。
宋版だってまずは仏典や儒教教典から印刷されました。
それが時代が下ると、商業目的の娯楽が印刷されるようになります。
中国からは『水滸伝』や『三国志演義』をはじめとする白話小説が大量に輸入され、庶民の娯楽として定着。
印刷技術が庶民の娯楽となった象徴は、瓦版です。
綱吉の時代ともなると、この瓦版が売られるようになります。
内容はゴシップあり、怪談あり、風刺画あり。
綱吉編では『忠臣蔵』のもととなった赤穂浪士討ち入りに、江戸っ子たちがうっとりする姿も描かれました。
識字率が高く、メディアがあるからこそ、そうした庶民の声が結実します。
こうなったらあの事件をモデルにして、エンタメをバンバンやるしかねえ――当時の人々がそう考えたからこそ、『忠臣蔵』は定番として残されたのです。
メディアによって高まった評価は、現代までも付きまといます。
再評価がなされつつある綱吉。
シーズン2で重要な役割を果たした田沼意次。
彼らはメディアによって面白おかしく誇張され、現代に伝えられてしまったからこそ、実像がわかりにくくなっているといえる。
一方、メディアによって評価の高まった人物が勢揃いしているのが、吉宗編といえます。
医療編では読売師というメディアを活用し、人痘を広めることに成功しました。
目安箱
冨永愛さんが颯爽と登場した吉宗。
停滞していた政治を動かした中興の祖として名高く、『徳川実紀』でも家康に次ぐ記述の多さとなっております。
そうはいっても、実は将軍一人の功績だけの話でもなく、吉宗時代はここまでに積み上げてきた要素が大きくプラスに作用しています。
吉宗の政策として有名な【目安箱】もそうでしょう。
庶民の意見を届けるこの仕組みには、前提条件があります。
読み書きができること。いくらアイデアがあろうと、投書できなければそれまで。
また投書できたとしても、内容が稚拙であれば届きません。庶民の声を届けるにせよ、教育があればこそできるのです。
『大奥』では、小川笙船の切実な訴えが届いていました。
当時の医者は漢籍を読みこなせるだけの教養は必須です。
民衆と上様を繋ぐ役割を、教養を身につけた医者が果たしているといえます。
享保の医療改革
幕末に来日した外国人は、瓦版を読み、好奇心旺盛な様子で見てくる江戸っ子たちに驚きました。
幕末日本の都市部では識字率が単に高いだけでなく、学問を高め、議論し、文芸を嗜む、そんな知的な営みができていたのです。
そんな教育水準を活かせたからこそ、吉宗の政策も生かされているのです。
改革では、薬の作りかたを教える文書が配布されました。
読み書きができなければ意味のない工夫といえるでしょう。教育水準があればこそできたことです。
この改革では、中国大陸や朝鮮半島に自生していた朝鮮人参の栽培も大きな役割を果たしています。
標高が高く、寒冷な土地でしか育たない
土壌が豊かすぎても、日照時間が長すぎても栽培できない
数年がかりでやっと育つ
それほどまでに栽培が難しい朝鮮人参栽培を根付かせるまでに、試行錯誤がありました。
確かな知識と実践があればこそ、こうした努力も実ったのです。
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