小川笙船

小川笙船がモデルとされる赤ひげ/amazonより引用

江戸時代

小川笙船が吉宗と共に日本中へ広めた医療改革~今まさに見直される東洋医学史

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東洋医学とは?

赤面疱瘡との闘いに取り組む吉宗と幕臣と医者たち。

東洋医学知識がないとドラマや原作でもわかりにくい部分があります。

どうにも東洋医学は日本史でも軽視されがちで、典型的な誤解として、こんなような例が挙げられます。

「戦国時代なんて鉄砲に撃たれたら、馬糞汁を飲まされたんだぞ」

『雑兵物語』にこうした記録が残されているのは確かですが、正直、民間医療やまじないの類でしょう。

そうではなく、当時から中国由来の医学を体系的に学んだ人物もいます。

中国由来の医学は漢方と呼ばれ、漢方医学には最古の医学書として『黄帝内経』があります。

前漢代に編纂されたこの書物、黄帝という神話上の人物との医学問答という体裁になっていて、2011年には世界記録遺産に登録されました。

黄帝が出てくる時点で、なんだか怪しいよな……という気持ちが湧いてくるのは、現代人の感覚。

実は、東西を問わず人類普遍的なものでした。

この医学書には、現在に至るまで用いられる診断についても記載されております。

◆脈診・検便(腸から出て来た排泄物を見る)

◆舌の観察・鍼と灸・全身の気脈・陰陽五行説

こうした理論は、後代の張仲景(150ー219/張機/字の仲景が有名で著書に『傷寒論』『金匱要略方論』あり)、華佗(?ー208)といった名医に引き継がれてゆくのです。

お正月の風物詩である屠蘇も華佗が開発したものと伝わっています。

屠蘇は中国では廃れ、日本に残りました。

なお、こうした東洋の伝統的な医学は、考え方の基礎として、陰陽五行説があります。

『麒麟がくる』のド派手衣装! 込められた意図は「五行相剋」で見えてくる?

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伝播と変容:各国で変わってゆく医療

こうした思想体系を基にした伝統医学は、周辺国にも伝わってゆきます。

しかしここで厄介な事態が生じます。

伝わった国では、その理論を基に目の前の患者を診ていくわけですが、いざ実践してゆくとどうしても

「これだけでは不足ではないか?」

「もっとこうした方がよいのではないか?」

という事態が起こります。

17世紀初頭、朝鮮王朝の時代。

名医として知られる許浚(きょ・しゅん/ホ・ジュン/1539ー1615年)は、そうしたジレンマに直面しました。

そこで、彼なりの経験則や様々な要素をふまえ『東医宝鑑』を記します。

朝鮮独自の医学は、ここに一つの形を成立させたと言えるでしょう。

何度かの改称を経て、現在では「韓医学」と称され、彼の生涯は『ホ・ジュン〜伝説の心医〜』はじめ、何度も映像化されています。

日本でも、伝播と独自の医学の発展を遂げています。

永観2年(984年)、丹波康頼が医学書『医心方』を記しました。

日本最古の医学書とされ、中国から伝わった医術をまとめ、日本の医師が見出した見解を加えた内容になっています。

時が流れ15世紀となると、中国で明朝が成立し、航海術も発展、日明間で医学の交流が生まれます。

明に渡り、そこで名声を博した日本人医師の記録が見られるようになるのです。

こうした記録は日本側のみのものが多く、信憑性に疑念が生じることは確かですが、記録から見えてくることもあります。

明で医術を学んでこそ、最先端である――明は海禁政策をとったこともあり、当時の日本において明由来のものは垂涎の的でした。

四書五経、兵法、書画、陶器……そうした文物への憧れがあり、いかにして明からの知識や物資を入手できるか、競っていたのです。

さらには明から学んだことを日本風にアレンジしてこそ、知識の極みだとも見なされ、同じことは医術においても言えました。

吉宗が起用した阿部将翁も、漂流した先の清で医術を学んだという説があります。

「韓医学」にせよ、「漢方」にせよ、誤解が生じやすい名称ではあるのは確かです。

「中国から学んだくせに、韓国独自と言い張るなんておかしい!」

「漢方って結局、中国のものなの? 日本のものなの?」

そんな疑念も聞かれたりしますが、どちらも誤解がある。

“中国にあった伝統医学を、その国独自に研究および実践したもの”ということでまとめられるのです。

大きな分類としては【東洋の伝統医学】であり、その下の分類として韓医学なり漢方がある。

各国によって鍼灸のツボが異なるとか、手順や薬の調合が異なることも、当然ながらあり得ます。

また、江戸時代以降は蘭方(オランダ経由の医術)も統合されて、現在の漢方に繋がってゆきます。

 


漢方の改革者は曲直瀬道三

日本独自の理念が見出されてゆく時代に、革命的な医師がします。

曲直瀬道三です。

『麒麟がくる』の望月東庵のモデルともされ、曲直瀬道三 は禅寺での修行後、足利学校で学びました。

そして明から伝えられる最新の医学と日本独自の療法を融合し、『啓迪集』にまとめ上げます。

この曲直瀬道三によって、日本独自の医術が一段と進化したといえる。

彼と同時代の医者である望月東庵と駒は、日本の医術がさらに進化してゆく時代を生き、目撃していた人物といえます。

実に貴重な歴史の目撃者です。

この曲直瀬道三は、戦国武将たちからも敬愛を集めていたことがわかります。

足利義輝を治療し、数々の茶道の名器を賜る

織田信長から蘭奢待を贈られる

・細川清元、三好長慶松永久秀らも治療する

毛利元就の余命を予言し、的中させる

毛利元就は、曲直瀬道三に心酔していました。

医学だけではなく、人生訓まで求めて、我が子にまで伝えたというのですから、その入れ込み様がわかろうというものです。

このように、名医とは体以外を治す政治的な動きもするとみなされていました。

豊臣秀次の処断においては、曲直瀬道三の甥にあたる玄朔が謹慎処分を受けております。

政治的なブレーンとしての役割を果たすとみなされていたからこそ、このような処分もあったのでしょう。

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