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【平賀源内】
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本草学者に弟子入り
江戸では本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りをして、本格的に学びました。
本草学とは、植物や鉱物を研究する学問です。
現代では聞き慣れない言葉かもしれませんが、注目していただきたいのが中国神話「三皇五帝」の一人・神農。
以下のように、想像図では何かをムシャムシャ食べている姿が描かれます。
実はこれ、野草を食べ毒味をしているのです。
この神農が本草学および東洋医学のシンボルであり、西洋医学にとってのアスクレピオスのような位置付け。
つまり植物や鉱物を調べて分類し、生薬作りを目指す学問が本草学なんですね。
そしてその最高峰とされる書物が、明代の李時珍『本草綱目』であり、日本にも輸入され、熱心に研究されました。
朝ドラ『らんまん』の主人公モデルである牧野富太郎も『重訂本草綱目啓蒙』により植物学の魅力に目覚めたと振り返っています。
それほどまでに完成度の高い本でした。
とはいえ、江戸時代初期からこんなレベルの高い本があり、日本版にアレンジをしていると、読んでいる方も慣れ、次第に新鮮味もなくなってきます。
そこで江戸中期にもなると、徳川吉宗の【享保の改革】により、蘭学などで一部が解禁。
例えばドドエンスの『阿蘭陀本草和解』といった書籍が輸入され、熱心に読まれるようになっていきました。
蘭学の解禁は、同時に日本の科学技術も一気に底上げします。
青木昆陽が、サツマイモ栽培のためにオランダ語を学ぶ。
そのオランダ語研究の成果を受けて、杉田玄白らが『解体新書』翻訳に励む。
東洋の知性が高まったところに、蘭学という西洋の学問が加わり、新境地が開かれてゆく――それが吉宗時代以降の特徴とも言えるでしょう。
平賀源内といえば、エレキテルはじめ西洋由来の研究や発明が注目されますが、そもそもは東洋学問の土台があってこそ成立したものだったのです。
奉公構によりフリーランスの道へ
宝暦9年(1759年)――かくして平賀源内の栄名が高まると、高松藩は「再仕官させたい」と思い始めます。
源内の第一回長崎遊学は、寛大で学問を好む藩主・松平頼恭(よりたか)であればこそ叶ったものでもあり、彼は江戸諸藩中興の祖ともいえる名君です。
あのとき許した源内がかくも立派になったのだ。よし、呼び戻そう!
と、頼恭からすれば再度家臣の列に加えることを考えていたのです。
源内には「医術修行」の名目で三人扶持が与えられることになりました。
しかし、源内からすれば「学問料」――つまり“奨学金給付”程度の認識だったようです。行動の自由は制限されず、研究のために褒賞と援助がもらえる。
そんな風に都合よく解釈して学問にのめり込んでいると、事ある毎に松平頼恭に呼び出されてしまう。
藩の薬草園がある目黒下屋敷まで出向く日が続き、次第に溜まってゆくストレス。
そして宝暦11年(1761年)、源内の我慢はついに限界!
暇願いを出したところ、高松藩は許可しました。
ただし、奉公構(ほうこうかまい)の条件付き――要するに「他の藩で登用できない」という厳しい条件であり、有名なところでは、黒田長政が後藤又兵衛に出した処置となりますね。
この騒動に巻き込まれたのが、本草学者であり師匠であった戸田旭山です。
源内が藩とのやりとりで「先生のもとで修行に専念したい」なんて勝手に名前を出されたものだから迷惑千万。
高松藩にも恨まれかねないし、そもそも日頃から塩対応しておいて、都合よく名前を使うとは何事か! と激怒します。
源内は確かに優れた才の持ち主ですが、同時にかなりクセの強い性格だったようで、この一件、周囲にはこう漏らしていたとか。
「少しだけ扶持をもらって、雑用を押し付けられるなんてやってられない。そもそも仕官は向いてないんだ」
それでも、なんだかんだで自由に生きていける。それが彼の生きた時代だったのでしょう。
国内産業を高める時代
宝暦12年(1762年)、平賀源内は満を辞して「東都薬品会」を開催しました。
全国の本草学者が、各エリアの薬草やその他の文物を持ち寄る物産会であり、実はこのイベント、日本史上でも大きな転換点ともいえるビジョンもありました。
いったい何なのか?
当時、日本が抱えていた問題の一つに「金銀の流出」がありました。
日本が貿易を続けていた中国歴代王朝が欲したものが金銀だったからです。
中国では、早くも漢代から金銀鉱山で枯渇の兆しが見え始め、日本へは絹や陶器、薬剤などを輸出して、その引き換えに金銀を得ていました。
日本にしてみれば、貴重な鉱物が出ていく一方ですので、この状況にどう対処するか、六代将軍・徳川家宣に仕えた新井白石以来の課題とされるのです。
本草学者もこの対策を継承。
八代将軍・吉宗のもとで対策に乗り出し、朝鮮人参はじめとする薬草栽培を普及させ、同じく高級品であった砂糖の国産も勧めました。
源内は、この取組にまさに一致した人物と言えるでしょう。
産業やアイデアは金になり、幕府も求める時代となったのです。
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