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【大江戸猫ミームと浮世絵】
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猫道楽を極める国芳
絶大な人気を誇った初代・歌川豊国以降、江戸ではこう言われるようになりました。
歌川派にあらずんば、絵師にあらず――。
そんな歌川一門に入ったものの、どうにもブレイクできない、くすぶっている絵師がいました。
歌川国芳です。
ろくに仕事もない時代、田んぼで捕まえたカエルを庭に放り投げては、それを観察することが慰めだった国芳。もともとカワイイものが好きだったんですね。
それがあるとき、長い下積みを経て『水滸伝』をモチーフとした【武者絵】によりブレイクを果たします。
【武者絵】は浮世絵ジャンルの一つとして存在していましたが、【美人画】や【役者絵】ほど売れるわけでもありません。
そんな状況を変えたのが国芳です。
次から次へとアイデアが湧いてきて、江戸っ子気質の国芳はたちまち売れっ子となってゆく。
妻ももらった。子も生まれた。弟子もどんどん増えてゆく。
余裕のある暮らしを手にいれた国芳は、実現したい道楽がありました。
「思うがままに猫と暮らしてェ」
江戸時代も折り返し地点を過ぎ、江戸っ子の生活レベルが上がると、余裕のできた人々は【道楽】、今でいうところの趣味をとことん突き詰めようとします。
猫はネズミよけにもなるし、もともと江戸っ子ペットのナンバーワン。
そんな江戸で「あいつの猫道楽はハンパねぇ」「猫といやァ、国芳よ」と呼ばれるほどになりたいと考えたのでしょう。
国芳も、とにかく熱心に猫を愛しました。
飼育数は常に最低でも5~6匹は居て、仕事場をうろついている……どころか仕事中も懐に抱いて絵を描いている。
猫位牌。
猫仏壇。
猫過去帳を所有する。
猫が死んだら、畜生塚(当時のペット霊園)に葬る。
猫供養を真面目にしなかった弟子は破門する。
それが国芳の猫ライフでした。
国芳のこうした逸話からは、当時の江戸ではペットのお悔やみビジネスもしっかりあったことがわかります。
自画像も猫まみれです。猫といえば国芳。江戸っ子たちもすっかり覚えました。
当時の浮世絵師らしく、国芳も春画を手掛けてはいます。
そのペンネームには「白猫斎よし吉野」とか「五猫亭程よし」等と「猫」の字が入はいりました。
「お、猫ってこたァ国芳じゃねえか。エロいねェ」
江戸っ子もこう判別できで安心ですね。
こうして国芳の猫道楽ぶりは、江戸でもすっかり定着したのです。
以下の記事は、そんな国芳の生涯をまとめたものですので、よろしければ併せてご覧ください。
歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質
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お上の禁制をくぐりぬけ
売れっ子絵師となった国芳は、家族、大勢の弟子、猫と暮らす日々を楽しんでおります。
とはいえ、世の中よいことばかりでもありません。
彼の世代は、田沼意次の失脚後に幕府の規制が吹き荒れた受難の時代であり、何か発売しようにも当局の目をかいくぐらねばなりません。
でも、どうすればよいのか。
手探りの状態が続き【天保の改革】を迎える天保12年(1841年)、国芳と猫、そして当時大流行した鞠の曲芸を組み合わせた『流行猫の曲鞠』と『流行猫の曲手まり』が売り出されました。
かわいい猫が擬人化されて、鞠の曲芸を演じる姿がカワイイ。
しかし、それだけでなく、どこかシュール。
売れ筋を組み合わせてあるとはいえ、人でなく猫を描いています。
こうした軽くユーモラスな絵は【戯画】とされ、規制をくぐりやすいものでした。
と、これが江戸っ子のハートをガッチリと掴み、猫絵ブレイクの手応えを感じさせます。
天保13年(1842年)、国芳の猫の絵はまたも話題をさらいます。
国芳は、同じく猫を愛する山東京山と意気投合しました。
名高い山東京伝を兄に持つ京山も、兄と同じく筆をとって生きる江戸の文人です。兄の執筆を支え、家業をそつなくこなす人物でした。
彼の作風は柔らかく、ほのぼのとしていて、女性や子どものファンも多いもの。そんな京山と国芳がタッグを組んで、天保13年(1842年)、『朧月猫草紙』が売り出されました。
メス猫のおこまちゃんが、イケメンにゃんこと恋をして、冒険をする。
そんな人間の生活を猫が演じる、とても愛くるしいお話です。
挿絵もカワイイ!
お話もウキウキワクワクする!
江戸っ子たちは大興奮してヒットを記録。
『朧月夜猫草紙』はヒットしすぎてしまい規制されるほどでした。
とはいえ、そこをすり抜けてどうにかしてこそ、版元の腕の見せ所です。
国芳の猫絵は売れる――そう察知した版元は国芳に発注をかけてゆくと、彼はアイデア抜群の絵師ですので次から次へと作品が生み出されてゆきます。
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