大河ドラマ『べらぼう』に登場するやいなや「ぶっ壊れてやがる!」と話題になった、えなりかずきさん演じる松前道廣(みちひろ)。
史実では一体どんな人物だったのか?と疑問に思われた方も多いでしょう。
公式サイトでは、こう説明されています。
時には行き過ぎた行動も平気でやってのける奔放な性格。
いやいや「行き過ぎたところじゃねーわ!」と声を荒げたくなるのも無理はありません。
なんせドラマでの初登場シーンは、装填した火縄銃を構えているところで、銃口の先にいたのは、満開の桜の木に縛り付けられた女中でした。
彼女の頭上には皿があり、それを射撃の的にしていたのです。
道廣の指先が少しでも狂ってしまえば女中の命はなかったでしょう。
なぜ、あんなことをしていたのか?
というと、女中の夫である松前藩士が何かしらの粗相をしてしまい「何でもする」と命乞いをしたようで、それを受けた道廣がその妻を的にした余興を始めたのです。
視聴者にしてみれば「行き過ぎた」でも「奔放な性格」でも片付けられない、衝撃的な初登場。
むろん、あんな調子では嫌気が差す者がいないわけがなく、劇中では、松前藩で元勘定奉行だった湊源左衛門が「鬼」と呼び、悪逆非道を告発すべく田沼意知に接触を図っていました。
それにしたって……皆さん、やはりこの疑問に戻られるでしょう。
史実の松前道廣とは一体どんな人物だったのか?
火縄銃で家臣を狙うような鬼畜だったのか?
その生涯を辿りながら考察してみましょう。
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若くして藩主となった典型的な外様大名
松前道廣の初登場となった『べらぼう』第21回では、同じく初登場となる吉原の大文字屋市兵衛がおりました。

『近世商賈尽狂歌合』に描かれた大文字屋/国立国会図書館蔵
見た目と家業は先代と同じ大文字屋であっても、性格はかなり違います。
叩き上げだった初代とは異なり、どこか危うげで、ぼんやりとした雰囲気。たとえ吉原の遊郭を束ねるような主でも、代替わりによって軟弱になっていく様が描かれています。
これは大名家でも同じこと。
戦うことで権力を得ていた武士の前から戦が消え、文治主義への転換が図られると、命の尊さや生活の厳しさと直面することはなくなりました。それなのに生まれながらにして、権力だけは当然のものとして保持する――それが太平の世を生きる大名でした。
そして、江戸時代の中期ともなると、若き藩主が登場しやすくなります。
当時は確かに平均寿命が伸びていましたが、大名が夭折することが往々にしてありました。
これが乱世であれば、次は幼主を避け、先代の幼い子ではなく、弟が相続するケースも見受けられます。
しかし太平の世となればそうはなりません。
幕府を筆頭に全国の諸藩で長子相続が厳格化され、当主の器量より血統が重視されるようになったのです。
それだけ政治が安定し、江戸前期のように改易が連発されることもなくなったのです。しかし、長子相続の厳格化には悪い面もあります。
藩主の器量が問われにくくなったのです。
そうした時代に入っていた宝暦4年(1754年)、松前道廣は7代藩主・松前資廣の嫡男として生誕。
明和2年(1765年)に父・資廣が死去すると家督を相続しました。
この時代らしい若き藩主の登場です。
『べらぼう』に登場あるいは言及される同時代の藩主にも、幼くしてその座に就いた者がいました。
例えば、松前道廣と同じ縁戚にいた薩摩藩主の島津重豪は延享2年(1745年)生まれであり、11歳でその座に就きました。

島津重豪/wikipediaより引用
重豪は英明である一方、金遣いの荒さは当時から問題視されたもの。
薩摩隼人の荒々しさを嫌い、洗練された文化を取り入れようとしました。
『赤蝦夷風説考』著者の工藤平助が仕えていた、仙台藩主・伊達重村は寛保2年(1742年)生まれであり、15歳で当主となっています。

伊達重村/wikipediaより引用
重村は、官位欲しさに贈賄を繰り返し、領民の苦しみを見ないかのように狩猟に励み、苦々しさと共に記録に残されるほどでした。
若くして藩主の座にのぼり、領民の苦労をものともせず人生を楽しんだ――松前道廣も、そんな典型的な大名の一人です。
ドラマの中で道廣が残虐行為をした宴には、島津重豪も同席していて、咎めるどころか一緒に面白がっていました。
同じような境遇の大名であるから物事の善悪が認識できない、そんな様子が描かれたのでしょう。
文武の才を間違った方向に用いる
史実の松前道廣は若くして文武両道であったとされます。
しかし、当時の大名家嫡男であればむしろ当然とも言える。幼き頃より英才教育を受けていて、よほどのことがない限り、それなりの才能は発揮できるものです。
再びドラマに注目しますと、危険な火縄銃遊びをする道廣に対し、一橋治済がこう言っておりました。
「さすが、遅れてきた“もののふ”と言われるだけのことはある」
それを耳にした田沼意次だけが顔をしかめていましたが、あのシーンはなかなか秀逸な描写だったかもしれません。
道廣は文武両道が当然の家に生まれてきた。
しかし、その才能を、己を律するために用いたりはしない。
抵抗できない相手を嬲り殺しにして遊ぶようなことで発揮する。
いったいこれの何が武勇なのか――。
「足軽上がりは馬の乗り方も知らんのではないか?」
松平武元からそんな風に嫌味を言われる田沼意次からすれば、それこそ噴飯物の馬鹿馬鹿しいやりとりだったでしょう。

田沼意次/wikipediaより引用
そもそも大名とは、個人的な武勇を誇るのではなく、指揮官として能力を発揮すべき存在。弓馬の道とは、あくまで個人的な精神修養にとどめるべきものです。
道廣を“もののふ”とする馬鹿馬鹿しさは、彼の所業を見ていくとより理解が深まるかもしれません。
寛政8年(1796年)、イギリス船・プロビデンス号が、アプタ(現在の北海道虻田郡洞爺湖町)沖に姿を見せました。
このとき道廣は、我が子や家臣の反対を押し切り、自ら出陣したのです。
戦う前の情報収集すら出来ていないのに、万が一、相手が艦砲射撃をしてきたら一体どうするつもりだったのか?
要は、頭を使わずに行動してしまう、愚将の一面が確かにありました。
隠居後も藩政に口を挟む迷惑さ
松前道廣は寛政4年(1792年)に隠居すると、家督は長男・章広に譲っております。
まだ余力のあるうちの隠居は、当時ではよくあること。
実際、島津重豪は天明7年(1787年)、伊達重村は寛政2年(1790年)に隠居しています。
重村はその6年後に若くして亡くなったものの、重豪の場合は驚異的な長寿かつ健康体であり、天保4年(1833年)に享年89で亡くなるまで藩政に影響を与え続けました。
では道廣の場合は?
実質的に藩政に影響を与え続ける、迷惑な隠居となりました。
素行不良と海防への取組の不手際を咎められ、文化4年(1807年)に幕府から永蟄居(謹慎命令)を下され、文化5年(1808年)に解かれるまで継続しています。

冬の松前城
それだけ藩政に影響があったということでしょう。
そして、それから24年後の天保3年(1832年)、江戸で亡くなりました。
享年79。
長寿であるがゆえに、存在感を見せ続けた生涯と言えるでしょう。
こうして振り返ると、松前道廣はいかにもこの時代らしい外様大名であり、実際、島津重豪や伊達重村と交流していたとされ、以下のように
・大名の嫡男として生まれ、若くして藩主となる
・文武を身につけても使い方が間違っている
・よせばいいのに隠居後も藩政に口を挟む
という典型的な迷惑外様大名でした。
彼個人の性格や資質だけでなく、こうした外様大名が輩出されることそのものが、この時代の問題点だったのでしょう。
そしてそんな外様大名同士が集えばどうなるか?
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