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【新渡戸稲造】
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あくまで太平の世である徳川時代の規範であり、戦国以前の武士の規範とはまるで異なるということ。
源平時代にせよ、源平時代にせよ、武士ははるかに荒々しい態度で戦っておりました。
もうひとつ。
新渡戸が生きていた頃から、彼はこの武士道は消滅しつつあると危機感を抱いておりました。
日清戦争・日露戦争の勝利の後あたりから、そのことを感じていたのです。
日本には武士道があるからそれでよいのだ――新渡戸の主張はそんな単純なものではないことをご留意いただければと思います。
ともかくこの『武士道』は、世界的ベストセラーになりました。
背景には、極東の国に過ぎない日本が、日露戦争でロシアを破ったという歴史的事件がありました。
その秘密を見いだすために、『武士道』が世界中に読まれたわけです。
ただし、これを日本人の美徳や精神性に結びつけることは、危ういことでもありました。
勝利といえども、中身は辛勝。
期待したほどの戦果も得られていません。
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そもそも背景には、ロシア帝国の衰退と弱体化がありました。
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当初は喜んでいたアジア諸国も、帝国主義に立ち向かうではなく、その仲間入りを果たすという日本に失望することになるのです。
そしてこの後の歴史の流れは、新渡戸自身を苦しめることにも繋がります。
東洋と西洋の架け橋になりたかった新渡戸にとって、晩年に訪れる架け橋が燃え尽き、戦争に向かっていった歴史は、苦いものに他なりませんでした。
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日本人の精神を教育したい
明治34年(1901年)、農政学に詳しい新渡戸にとって、うってつけとも思えるオファーがありました。
台湾総督府技師、同殖産課長として働くということです。
新渡戸は糖業発展に尽力することになりましたが、本人としては納得できない部分もありました。
が、同郷の台湾総督府民政長官・後藤新平の誘いを断ることはできません。
植民地支配に加担したという点は、彼の経歴における汚点とみなされています。
新渡戸自身がそれに気づかなかったはずがなく、以前からあったうつ病の傾向がより強まりました。
時は日露戦争のあと。日本は上昇してゆくと思われた頃です。
しかし、新渡戸は危機感を覚えていました。
驕り高ぶった日本人の精神性は、危険である、と。
だからこそ、植民地支配に協力してしまった贖罪の意味もこめて、教育に邁進し、日本人の精神性を鍛えるべきであると考えたのです。
日露戦争では、与謝野晶子が『君死にたまふことなかれ』を発表しております。
知識人の中にも、この勝利は薄氷を踏む辛勝であり、このままでよいのか?と疑念の呈する声もありました。
しかし、そうした声は日露戦争後に強まった言論統制の流れにより、封じられてゆくことになります。
新渡戸の懸念は正しかったのです。
各大学の教授や校長を務める
台湾から戻った新渡戸は、教育に専念しました。
明治36年(1903年)には京都帝国大学の教授に就任。
明治39年(1906年)から大正2年(1913年)までは、第一高等学校校長として生徒の人望を集めました。
この期間においても、明治42年(1909年)に東京帝国大学教授を兼任し、大正7年(1918年)には東京女子大学の初代学長にも就任。
文字通り八面六臂の活躍で精力的に働きます。
新渡戸は1984年(昭和59年)から平成19年(2007年)まで使用された五千円札の図案に選ばれました。
このときの紙幣には、女性教育に関する人物が選ばれることとなり、東京女子大学の初代学長であった彼に白羽の矢が立ったのです。
女性を選べばよいのではないか?
とも思われるかもしれませんが、女性の候補たちには「肖像画がない」等の障害があり、条件を満たすことができませんでした。
そこで、女子教育推進者として、新渡戸が選ばれたわけです。
「西洋かぶれ」との批判も浴びた
新渡戸は『武士道』が著作であることから、日本人の精神性を称揚していたと誤解されがちです。
が、それは違います。
彼は生徒に対してリンカーンやクロムウェル、フランス革命といった西洋の伝記や歴史を用いながら、人間の精神性を説きました。
こうした新渡戸の方針は、一部の生徒から「西洋かぶれ」との批判を浴びることにもなります。
「バタ臭い」という悪口すらあったのだとか。
新渡戸の理想である【東洋と西洋の架け橋】という思想を、受け入れられない人は多かったのです。
皮肉にも、こうした見方は明治黎明期よりも、日露戦争勝利後に強まって来ています。
あの西洋の大国ロシアすら下した日本は、もはや西洋から学ぶことなどない。
そう思い始めた日本。
極東の小国が、西洋を脅かしつつある。敵になるかもしれない。
そう考え始めた、西欧諸国。
明治の開国後、西洋から批判の声が日本につきまといました。
キリスト教弾圧事件である浦上四番崩れ。
マリア・ルス号事件。
大逆事件。
関東大震災後の外国籍の人々らに対する虐殺事件。
この事件は現在「なかった」という歴史修正的な議論が沸き起こりますが、当時の報道を見ても海外から激しい批判に晒されていたことは明白です。
そうした批判だけではなく、アジア人を警戒する「黄禍論」が渦巻くようになっていったのです。
そんな世相の中で、新渡戸のような東西の架け橋は辛い運命に晒されることとなります。
東洋と西洋の間には、架け橋どころか戦火に向けて火がくすぶる世相へと転換してゆくのでした。
国際連盟に尽力
東洋と西洋の架け橋になりたい――そんな新渡戸の思いは、終生、変わることはありませんでした。
明治44年(1911年)、日米交換教授として渡米、各地で講演を開きます。
大正3年(1914年)、ヨーロッパは第一次世界大戦の戦火に包まれ、日本は連合国側を支持しました。
そして大正7年(1918年)の大戦終結後。
このような戦禍を防ぐために、国際連盟が生まれます。
日本政府がこの国際連盟に送り込む日本代表として内定したのが新渡戸でした。
新渡戸は必ずしも気乗りしていたわけではありませんが、彼こそ最適任者であるという評価は揺るぎません。
大正8年(1919年)には渡欧を果たし、臨時国際連盟事務局が置かれたロンドン、そしてジュネーブに滞在。大正15年(1926年)の辞任まで、連盟の発展に寄与することとなったのです。
この国際連盟における新渡戸の苦悩は、並々ならぬものがありました。
当時の日本は、
・対華二十一箇条問題
・山東問題(※第一次世界大戦に際して、世日本が膠州湾租借地を占領/山東省におけるドイツの権益を継承しようとしたことから始まった国際紛争)
等のため、国際社会から厳しい目線で見られていたのです。
第二のドイツになるのではないか?
日本はそう警戒されておりました。
新渡戸はそんな日本の印象を改善すべく立ち回ります。が、国内外どちらからも冷たい目線を向けられてしまいます。
日本からは、愛国心を強調する右翼や国粋主義者から叩かれ。
海外からは、日本弁護に関して厳しい批判を受け。
東西の架け橋どころか、どちらからも睨まれる苦難を味わったのです。
苦悩する「架け橋」
この苦悩は、国際連盟から身を引き、貴族院議員、太平洋問題調査会理事長となってからこそ、より悪化することになります。
昭和3年(1928年)、張作霖爆殺事件が発生。
このあたりから、日本の歩む道が暗くなり始めました。
昭和6年(1931年)に柳条湖事件が起こった時には、第四回太平洋問題国際会議が上海で開催されます。
対日感情が最悪になる中、新渡戸はこの会議に出席するほかありません。
彼の精神状態は極めて悪化し、苦しんだ中での参加。
この会議で、新渡戸は中国側の批判に反論しておりましたが、事態はさらに悪化してゆきます。
昭和7年(1932年)。
柳条湖事件に端を発した日本軍の動きが、第一次上海事変、ついに満州国建国にまで至ります。
こうなると世界の目線は日本へ厳しい非難ばかりに……。
国際連盟は、リットン調査団を派遣し、満州事変や満州国の妥当性について調べ始めました。
調査団は、満州へ向かう前に国際連盟で勤めていた新渡戸を訪れました。
そこで新渡戸は日本の弁護に努めます。
が、いくら彼が熱弁を振るおうと、調査団は日本に対する印象を悪化させるばかりだったでしょう。
当時の日本では、過激な右翼である「血盟団」が暴力による暗殺事件を多数引き起こしていたのです。
新渡戸と親しい井上準之助、リットンとの会談に臨んだ團琢磨、犬養毅が、凶弾の犠牲となりました。
新渡戸自身も、右翼から動向を監視され、命を狙われていたのです。
更にこの年、松山で公演した際、
「軍閥が日本を滅ぼすのではないか」
と新渡戸が語ったところ、マスコミは一斉にバッシングに回りました。
自宅にまで暴力的な右翼が押しかけ、メアリー夫人が体調を崩すほど。
新渡戸がかつて懸念していた、日本人精神の悪化が進んでいたのです。それはもう彼が解いた「武士道」からはかけ離れてゆくばかりでした。
排日運動の起きるアメリカで……
このころの日本は、悪化してゆく状況打開のため、アメリカと結ぼうとします。
そんな中、新渡戸は渡米。
母国では、右翼を警戒せねばなりませんが、アメリカなら……と思ったら、そうコトは単純ではありません。
アメリカでは、排日運動が起きていました。
さらには満洲事変における日本の立場を弁護したたため、新渡戸は軽蔑のまなざしで見られたのです。
「あなたはクェーカー教徒で、学者で、哲学者ではありませんか。国際連盟のためにも尽力なさって来ました。そんなあなたなのに、母国が『パリ不戦条約』を破るさまを弁護なさるとは悲しいことです。日本の軍国主義を批判なさらないとは……」
新渡戸の渡米は、苦いものでした。
彼は体調を崩したメアリー夫人を残し、一時帰国。
昭和8年(1933年)、太平洋会議出席のためカナダに赴きます。
そこで病となり、駆けつけたメアリー夫人が見守る中、ビクトリア市のジュビリー病院にて死去しました。
享年72。
★
新渡戸の死後、彼の懸念していた事態は的中します。
日本は国際連盟を脱退し、戦争への道を突き進んでゆくのです。
新渡戸の姿勢からは、今日を生きる私たちも学ぶことは多いはずです。
他国や文化との交流を目指す人物が、愛国心がないと批判にさらされることは、幕末から現代に至るまで残念ながらありえることです。
しかし、それは見当違いの批判でしょう。
他の国や文化から学んでこそ、より深い自国や文化を作り上げることができるはず。
そう願うことこそ、新渡戸の目指した架け橋型の愛国心ではないでしょうか。
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文:小檜山青
【参考文献】
『明治のサムライ―「武士道」新渡戸稲造、軍部とたたかう (文春新書)』太田尚樹(→amazon link)
『国史大辞典』